第二部-26 思い出
式典を終えた後、会談は城塞内に用意された小さな応接室へ場所を移していた。
外の石造りの会場とは違い、そこには華美な装飾がほとんどない。
壁に掛けられた幾枚かの風景画と磨き込まれた古い家具。窓の向こうには先ほどまで式典が行われていた中庭の一角が見えている。
侍従が銀の盆を運び二人の前へコーヒーを置いた。
ボリスはカップを持ち上げ香りを確かめるように鼻先へ寄せる。
上質な匂いだった。
向かいに座るハーコン・オーラヴ五世はその様子を見てわずかに口元を和らげたものの、何も言わなかった。しばらくは式典についてのありふれた言葉が続いた。
天候のこと。参列者のこと。フィンマルクから来た遺族のこと。
それから国王は窓の外へ目を向ける。
雨雲の切れ間から弱い光が濡れた城壁を照らしていた。
「ようやくここまで来ました」
「ここまで、とは?」
怪訝そうな表情を浮かべたボリスを見て国王は小さく笑った。
「失礼。少し話を飛ばしすぎましたね」
ソーサーへカップを戻す。
「世界が分かたれていった頃、私はまだ子供でした。エリツォン大統領、あなたはどうでしたか?」
「子供の頃、ですか」
思いもよらない問いだったらしい。ボリスは面食らった顔をした。
国王はそんな彼から視線を外し少し遠いところを見るような表情をした。
「1940年、ドイツ軍が我が国へ侵攻したとき私たちはできる限りのことをしました」
言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「もっとも当時の私にそれを理解することはできませんでした。まだ三歳でしたから」
父と祖父が険しい顔で話しをする中、屋敷で慌ただしく人々が行き来していたこと。
大人たちが子供に悟らせまいとしているときほど何か恐ろしいことが起きているのだと、幼いながらにも感じたこと。遠い日の記憶は断片しか残っていない。
「母と姉たちとともにまずスウェーデンへ逃れました。その後私はアメリカへ渡った。父と祖父は国に残り、最後には英国へ向かいそこから戦争を続けた」
ハーコンは自分の手元を見た。
「幼い私に選べることなどありませんでした。それは理解しています」
その声音に一瞬だけ違うものが混じった。
「ですが年齢を重ねてから……何度か考えたことがあります」
ボリスは黙って聞いている。
「もし私がもう少し早く生まれていたなら、と」
国王は苦笑した。
「愚かな考えでしょう」
「そうでしょうか」
ボリスが短く返す。ハーコンは少し意外そうに彼を見た。
共感をもらえるとは思っていなかったのだ。
「国民が占領に耐えている。北では抵抗する者たちが命を懸け、海では船員が沈められ、山中では人々が追われていた。その頃私はアメリカで保護されていました」
あたたかな部屋で。十分な食事をとりながら。安全な寝床で祖国を思いながら。
遠い祖国では家を焼かれた国民がいるというのに。
ノルウェーの商船隊は連合国のために海を走り、北ではソビエト側から支援を受けドイツ軍と戦った者もいたというのに。
彼は己の手を見た。老いて皺が浮き出た手だった。
もし、もしあの時今の年齢だったのならば。銃を手に取れたのに、と。
「もちろん子供に罪があるわけではありません」
国王自身がそれを自分へ言い聞かせるように言った。
「それでも王族というものは不思議な立場です。苦しいときに国民と同じ場所にいられなかったという事実を、歳を取ってから何度も考えるようになる」
そこで言葉を切った。
「私が戦える年齢であれば、と悔しく思ったこともあります」
窓の外で風に揺れた旗の端が一瞬だけ見えた。
ハーコンはそこで自分の話を打ち切るように首を振った。
「……いえ。繰り言ですね」
コーヒーを一口飲む。
「あなたは当時どうされていましたか、大統領」
ボリスは返事をするまでに少し時間を置いた。
彼自身もずっと昔の記憶を掘り起こしているようだった。
「私の世界はもっと小さかった」
やがて口を開いた。
「戦争が始まったときは十歳にもなっていません。陛下ほど立派な場所にもいなかった。ただのウラルの田舎の子供です」
口元にかすかな笑いが浮かぶ。
「食い物がない。靴がない。大人たちはいつも怒っている。それが私にとっての戦争でした。馬鹿な子供でした。転がっていた手りゅう弾で指を吹き飛ばしたりもした」
国王は黙って耳を傾けた。
「親父たちは戦争の話をし、近所から男が消えていく。戻ってくる者もいれば戻らない者もいる。私たち子供には国で何が起きているのか全部は分からなかった」
ボリスは大きな手でカップを包んだ。
「ただひどく大きな何かと戦っている。それだけは分かっていました。誰もが余裕がなくおびえていた。ナチスに、あるいは党に」
二人の間に短い沈黙が落ちた。片方は王家の子供。
片方はウラルの農村に生まれた少年。
それでも同じ時代、遠く離れた場所で大人たちの顔から戦争を知った。
ハーコンはそのことを確かめるようにゆっくり頷いた。
「だからでしょうか」
「何がです」
「私はあなた方と話せる関係でありたいと思っています」
国王の言葉は飾られていなかった。
「これは特に隠していることではありません。歴代の政府も知っていますし、国民もおおむね承知しているでしょう」
ボリスの目が少し細くなる。ハーコンは続けた。
「ロシアとノルウェーがすべての問題で同じ考えを持つ必要はありません。そんなことは不可能です」
「ええ」
「私たちはNATOの一員です。それも変わらない」
そこだけは明確だった。
「しかし同盟を持つことと、隣国と話をすることは矛盾しないはずです」
ハーコンはボリスの目を見る。
「私はそう考えています」
穏やかな口調だった。
それだけに彼がそこから一歩も退く気がないことがよく分かった。
「漁業で意見が食い違えば話し合う。国境で問題が起これば担当者同士が解決する。海底に資源があるなら互いに何を望んでいるのかを確認する」
一度息を置く。
「そして戦争で亡くなった人々を悼む日は、政治情勢がどうであれ一緒に頭を下げる」
国王は自分のカップへ視線を落とした。
「そういう関係を私は失いたくありません」
ボリスは何も言わなかった。この国は小さい。
人口も領土もロシアとは比べものにならない。
軍事力ならなおさらだ。
海の向こうには英国があり、大西洋の先にはアメリカがいる。安全保障の多くを巨大な同盟に預けていることも事実だった。それなのに、だ。
この王はどこにも膝を屈しているようには見えなかった。
アメリカに守られているからアメリカの言うことを聞く。
ロシアが怖いからロシアへ頭を下げる。
そんな単純な理屈では動いていない。
必要なら同盟国にも意見を言い、同時に巨大な隣国とも付き合う。
その両方を当然の権利として扱っていた。ボリスはそれを少し羨ましいと思った。
ロシアにはそんな贅沢はなかった。
巨大であるということは強いという意味だけではない。
何かをすれば周囲が警戒する。何もしなければそれはそれで意図を疑われる。
一歩退けば弱腰と罵られ、一歩進めば帝国主義と呼ばれる。
国内には失われた超大国の幻影にしがみつく者がいる。
国外にはロシアがいつ再び牙を剥くのかと待ち構える者がいる。
この小さな北欧の国には、自分たちが何者であるかについてロシアほどの迷いがないように見えた。
それが少しだけ眩しかった。ボリスは苦笑した。
「陛下」
「はい」
「小さな国というのはもっと大国の顔色を窺って生きているものだと思っていました」
ハーコンの眉がわずかに上がった。
「実際、窺っていますよ」
あまりにあっさりした返事だった。ボリスが目を丸くする。
国王は静かに笑った。
「ただし顔色を窺うことと、言われた通りにすることは別の話です」
ボリスは数秒何も言わなかった。それから喉の奥で笑った。
「なるほど」
コーヒーを飲む。先ほどより少しだけ苦味が心地よく感じられた。




