第二部-25 合同慰霊祭
1994年5月8日、ノルウェー王国 首都オスロ。
朝から降っていた細かな雨は式典が始まる頃には止んでいた。
だが空はまだ低い。
北海から流れ込んだ灰色の雲がアーケシュフース城塞の古い石壁の上に重く垂れ込めている。濡れた石畳にはノルウェー国旗とロシア三色旗が映り込み、その向こうでは黒い礼装に身を包んだ衛兵たちが微動だにせず立っていた。
戦没者を悼むための席が並び、その後方には各国外交団と報道陣。
シャッターの音がまだ始まってもいない式典の静けさを細かく切り刻んでいる。
黒塗りの車から降りたボリス・エリツォンはコートの前を閉じると、首元のネクタイを指でわずかに引いた。
「曲がってないか」
誰にともなく呟く。
ヴィクトル・ペトロフは横から一瞥した。
「問題ありません」
「本当か?」
「カメラにはそこまで映りません」
「そういう問題じゃない」
ボリスはもう一度ネクタイを直した。
その視線はすでに正面に並んだカメラへ向いている。
「『五十年前、我々の父祖は共に戦った』……いや、少し堅いな」
小声で声明文を反芻する。
「『ロシアはノルウェーの自由のために流された血を忘れない』……これはどうだ」
「逆です」
ヴィクトルが言った。
ボリスが首を回してヴィクトルを見た。
「何がだ」
「忘れていないのはノルウェー側でしょう。我々が自分たちの血を覚えていると宣言しても、あまり意味はありません」
「相変わらず可愛げがないな、お前は」
「性分ですから」
ヴィクトルは淡々と答えた。
そのまま一歩だけボリスへ近づき、周囲には聞こえない程度まで声を落とす。
「国王陛下はお任せします」
「ん?」
「私は首相と、慰霊祭の後少し話をしてきます」
ヴィクトルの視線が式典会場の反対側へ流れた。
そこにはグーロ・ハルセン・ブラント首相がいた。
濃紺のコート、装飾は少ない。
周囲には外務省職員と警護が控えているが、彼女自身は誰かと盛んに言葉を交わしているわけでもない。ただ静かにロシア代表団を見ていた。
目が合った。ほんの一瞬視線が交錯する。
ブラントはかすかに目線を下げた。
挨拶とも確認とも取れる小さな動きだった。
ヴィクトルも同じ程度に目線を下げる。
「……ああ」
ボリスはそれだけで察したらしい。
「難しい話はお前に任せる。それで俺も慰霊祭の後、向こうの国王とうまく話しておけばいいんだな?」
「可能なら」
「可能ならとは何だ」
ヴィクトルは答えず、歩き出した。
その背中にボリスが何か文句を言っていたが、聞かないことにした。
式典席にはすでにフョードル・チェルノフが座っていた。
彼はロシア代表団の随員として正式な席を与えられている。
そのこと自体には何の問題もない。問題は少し離れた場所だった。
アルドナ・カヴァラウスカイトは報道用の柵の近くで立っていた。
カメラマンや記者、自治体関係者が立つ区域の端。
代表団にも、外交官にも、政府職員にも完全には分類できない彼女には
正式な席が用意されなかった。ロシア大統領府第一副長官の法律顧問。
そう名乗ることはできる。
だがそれをどの国が公式な身分として認めるのかと問われれば、答えは曖昧だった。
実質消滅した国家の国籍を持ち、祖国から追放され、それでもロシア政府の中枢で仕事をしている。
その立場を式典の席次表へ落とし込めと言われても、ノルウェー外務省の儀典担当者が困ったのは無理もなかった。
居心地が悪そうにチェルノフは自分の前に置かれた椅子を見た。
それから立っているアルドナを見る。
妙に座りづらかった。別に自分が彼女の席を奪ったわけではない。
席次はノルウェー側が決めたものだ。何より自分には公式な役職がある。
それでもチェルノフは背もたれから少し身体を起こした。
アルドナは気づいたらしい。こちらを見ると小さく首を振った。
座っていろ。
そういう意味だった。続いてほんの少し笑う。
気にしていない、と。そういったしぐさだった。
チェルノフは仕方なく前を向いた。
やがて衛兵の動きが変わった。ざわめきが消えていく。
ハーコン・オーラヴ五世が姿を現す、背筋の伸びた穏やかな老人だった。
その姿に派手さはない。だが彼が歩くだけで周囲の人間が自然に声を落とす。
その隣へボリスが並ぶ。かたや生まれながらの王族、かたや田舎からの成り上がりもの。
だがそれは今の本質ではない。
そこにいるのはノルウェー国王とロシア大統領であり、
二人の背後にそれぞれの国旗がはためいている。
ヴィクトルは少し離れた場所からその光景を見ていた。
国王が先に演壇へ立ち、短い沈黙の後
静かな声で話し始める。
「今日、私たちは先の戦争の終わりを祝うために集まったのではありません」
柔らかい声だった。だが一語一語がよく通る。
「自由を取り戻すために命を失った者たちを思い出すために集まりました。
それは私たちノルウェー人。あるい協力関係にあったイギリス人やアメリカ人」
国王は一息そこで息を継いだ。
「そして、ソビエト連邦兵。彼らはみなこの地に自由を取り戻すために戦われた方々です」
国王は穏やかに話を続ける。
「戦争の記憶はどの国にとっても容易なものではありません。私たちは異なる記憶を持ち、異なる悲しみを抱えています」
一度だけロシア代表団を見る。
「しかし東フィンマルクの地には、一つの揺るがない記憶があります」
風が旗を鳴らした。
「赤軍の兵士たちが我が国の自由のために血を流したこと。任務を終えた後、彼らがノルウェーの国土から去ったことです」
ボリスの顔から先ほどまでの落ち着かない表情が消えた。
国王は続ける。
「私たちはその犠牲を忘れません」
国王の持つ穏やかな心が場を導くように、慰霊の言葉は紡がれていく。
「過去への感謝は未来への期待を意味するものではありません。しかし同様に、今日の意見の相違が過去への感謝を消すこともありません」
ヴィクトルの姿勢がほんの少し動いた。
いい言葉だ。外交官が書いたものなのか、国王自身の言葉なのかは分からない。
だが少なくともノルウェーという国の姿勢をよく表していた。
「ロシアとノルウェーはこれからも隣国であり続けます」
国王は最後にそう言った。
「友情という言葉だけでは足りないでしょう。必要なのは互いが互いの存在を尊重し、今日交わした約束が明日も守られると信じられる関係です」
それからボリスを見る。
「その関係を次の世代へ渡すことを願っています」
国王が下がった。ボリスが演壇へ向かう。
途中、彼はほんの一瞬だけヴィクトルを見た。
おい、さっきまで暗唱していた文章をどうする。飛んでしまったぞと。
そんな顔だった。
ヴィクトルは少しだけ口元を緩ませ、目線で話した。
好きに話してくださいと。
ボリスは演壇に立った。手元の用意された原稿を見る。
彼は一枚めくり、あっさりとそれを――閉じた。
ヴィクトルは小さく息を吐いた。
やはりそうなるか。
「陛下」
ボリスの声が響いた。
「ノルウェーの皆さん」
少し間を置く。
「私は今日長い声明を用意してきました」
報道陣のあたりから小さな笑いが漏れた。
「優秀な役人たちが一晩かけて書いてくれたものです。あとで怒られるでしょうが、読まないことにしました」
今度はもう少し大きな笑い。ボリス自身も笑った。
だがすぐに表情を戻す。
「我々ロシア人も戦争を忘れてはいません」
声が低くなる。
「忘れるには、死にすぎた」
笑いが消えた。
「ノルウェーで死んだ兵士たちはロシア人だけではありませんでした。ウクライナ人も、ベラルーシ人も、カザフ人も、タタール人もいた。彼らはソビエト兵としてここへ来て、ここで死んだ」
ボリスは国王を見る。
「陛下がおっしゃった通り、生き残った者は祖国帰りました。彼らは家族と、あるいは友人との生活を取り戻すことできた」
わずかに肩をすくめる。今度は誰も笑わなかった。
「そんな我々の祖国は今や別の国になりました。皆自分たちで決断し、自分たちの国で生きています。私もソビエト連邦の書記長としてではなく、ロシア共和国の大統領としてここでお話ししています」
ですが、ボリスはそこで息をついた。
「国が変わっても、隣人までは変えられません」
その言葉に国王が静かに頷いた。
「ロシアはノルウェーとの国境を平和な国境として残したい。さらに海の上でも同じことをしたいと考えています」
そこだけは明らかに政治的だった。
ヴィクトルはそっと横目でブラントを見た。
首相の表情は変わっていない、だが確実に考えているはずだ。
当然だ、両国の間にはあまりにも利害関係が多すぎた。
バレンツ海の漁業権、あるいは石油や天然ガスなどの大陸棚の資源。
そして冷戦で最も穏やかと言われた双方の国境での治安協力。
この短い一文だけでいくつもの問題がぶら下がっている。
ボリスは最後に戦没者碑へ顔を向けた。
「死者にはもう国境は必要ないでしょう」
少しだけ声を落とす。
「だからせめて生きている我々は、国境のこちらと向こうでまともに付き合う努力くらいはしなければならない、私はそれを切に願っております」
彼は頭を下げた。今度こそ拍手が沸き起った。
それは慰霊に配慮したささやかなものだが、参列者たちはその長さで彼に報いた。
ヴィクトルも形式的に手を叩きながら、視線だけを会場の端へ滑らせた。
アルドナがいた。ヴィクトルはほんの一瞬だけその横顔を見つめた。
彼女が何を考えているか、わずかに心を寄せながら。
慰霊祭は続いていく。ヴィクトルはその光景を目で追いながら、思考は
湖のように広がっていた。
五十年前、大国の軍隊が小国の領土で血を流し、去った。
その記憶をノルウェーは自国の安全保障の一部として保存している。
だからこそロシアと話し、冷戦の間もずっと慰霊祭や北極圏(スヴァールバル等)での共同開発を止めていない。彼らはNATOにいながらも、モスクワとの扉を決して閉じなかった。
だがその扉をどう使うかについては、口を挟みたい者がいる。
ワシントンもロンドンも、ノルウェーとロシアが話すこと自体を嫌っているわけではない。
むしろ今の欧州ではロシアとの対話そのものが西側の政策だった。
問題はその対話をオスロが独自の外交カードとして使い始めることだった。
ヴィクトルは感づいていた。
少なくともこの数週間、両国の首都からオスロへ届いた外交公電がただ友好的な助言だけで出来ていたはずはない。
ロシアとの大陸棚交渉を別の政治案件と結びつけるな。
モスクワとの二国間取引によって西側の共同歩調を崩すな。
NATO内部の問題をロシアとの取引材料にするな。
制裁問題でモスクワとの共同歩調を取引するな。
おそらく表現はもっと柔らかかっただろう。
だが意味は何も変わらない。ノルウェーは小国だ。
アメリカを無視できないしイギリスとも争えない。
NATOから離れることも、むろんない。
だからこそ。だからこそ、だ。
手を離すべきではない。少なくとも、ロシア側からは。
彼はかすかに歯をかんだ。式典はつつがなく終わりつつあった。




