第二部-24 なすべきこととは
モスクワ、国防省庁舎。
窓の外には四月下旬だというのにまだ冬の名残があった。
道路脇には黒ずんだ雪が残り、モスクワ川から吹き上げる風が灰色の雲を低く押し流している。
ドミトリー・ヤトフ元帥の執務室には、帰国したばかりのウラジーミル・イワノフ大佐とヴィタリー・アルスラノフ少佐がいた。
怒気が残った雰囲気でイワノフはヤトフに書類を差し出し、押し黙っている。ヴィタリーはその隣で背筋を伸ばして立っている。
ヤトフは彼にも椅子を勧めたが、彼は丁重に断っていた。
ヤトフは机の向こうでイワノフの報告書を読んでいた。
一枚。また一枚。紙をめくる音だけが長いあいだ部屋を支配していた。
やがてイワノフが口を開いた。
「元帥閣下」
ヤトフは顔を上げない。
「なんだ」
「これは制裁ではありません」
返事はなかった。イワノフは続けた。
「少なくとも私が見てきたものは違う」
声が硬くなる。顔も興奮でかすかに赤くなっていく。
「兵器を止め、軍需物資を止める。それなら道理が分かります。確かにあの国は戦争を始めた。クウェートへ侵攻し戦乱をまき散らした。それについて責任を負わせることに私も異論はありません」
ヤトフは黙っている。
「だが市民の生活を締め上げる理由は何です」
紙をめくる音が止まった。
「抗生物質を止める理由は。医療設備を止める理由は。乳児用の栄養剤まで届かなくする理由は何です」
イワノフの声が少しずつ大きくなる。
「私は病院を見ました」
その一言だけは奇妙に静かだった。
「子供が死んでいた、モスクワで当たり前に提供される医療があれば助かった命が」
ヤトフの指は報告書の上で止まる。
「今日も明日も死ぬでしょう。爆撃ではない。砲弾でもない。薬も水も食べ物もない以上、誰も生きてはいけない」
イワノフは拳を握った。
「元帥閣下。我々は何のために半世紀も西側と向き合ってきたんです」
ヤトフがゆっくりと顔を上げた。
「ベトナムが焼かれた時」
イワノフは止まらなかった。
「アメリカが爆撃機を飛ばし、第三世界の国々が自分たちだけではどうにもならない力で押し潰されようとした時、後ろに立ったのは誰です」
隣にいるヴィタリーは黙っていた。彼はイワノフの話にうなづくでもなく、
ただ二人の会話を眺めている。
「我々でしょう」
イワノフの声が部屋に響いた。
「良かれ悪かれ私たちソビエトがいた。モスクワがいた。アメリカに逆らえば即座に踏み潰される、そんな世界にしないための壁として我々は存在していた!」
ヤトフは何も言わなかった。
「アフリカでもアジアでもアラブでもそうだった。西側の連中が我々を帝国主義者と呼ぼうが構わない。だが少なくとも世界には二つの扉があった。ワシントンに頭を下げなくても生き残る道があった!」
声が掠れる。
「その片方が消えた途端、これです」
イワノフは机の上の報告書を指した。
「安保理決議。制裁委員会。二重用途品目。合法、合法、合法!」
彼は一息に吐き捨てる。
「書類一枚一枚には血などついていない。だがあの病院へ行けば分かる。ここでペン先一つではねられた品目が、最後には人間の死体に変わるんです!」
しばしの沈黙。ヤトフは黙ってイワノフを見ていた。彼は怒ってはいなかった。
むしろ疲れているように見えた。やがてヤトフは両手を机についた。
重い身体を押し上げるように立ち上がる。
そして窓際まで歩くと、背中を向けたまま言った。
「第三世界の壁、か」
ヤトフは窓の外を見た。
「いい言葉だ」
皮肉ではなかった。
「私もそう信じた時期がある」
ヤトフは片手を窓枠についた。
「ウラジーミル」
その呼び方でイワノフの表情がわずかに変わった。
階級ではなかった。
「君もいたな、お兄さんもだ」
ヤトフが言った。
「アフガニスタンに」
空気が止まった。イワノフの拳がゆっくりとほどけた。
ヴィタリーだけが彫刻のように動かなかった。
「我々もまた手を汚した」
ヤトフの声は低かった。
「村を砲撃した。輸送路を守るために谷を焼いた。武器を持っているか分からない男を撃った。ムジャヒディンがいるという情報だけで集落を捜索した」
「元帥閣下」
「最後まで聞け」
静かな声だった。気圧されてイワノフは口を閉じた。
「我々には我々の理屈があった。革命政府を守るため。イスラム過激派の拡大を防ぐため。南の国境を守るため」
ヤトフは振り返らない。
「どれも嘘ではない、嘘ではなかった。私はそれを確信し、君たちに指示を出した」
その言葉が重かった。
「そしてワシントンにも今、理屈がある」
イワノフの顔が強張る。
「彼らもまたこう思っているはずだ。クウェートを侵略した国家に責任を取らせる。大量破壊兵器を封じ込める。再侵攻を防ぐ。これこそが国際秩序を守ることだと」
「だから子供を殺していいと?」
イワノフの声が割り込んだ。ヤトフはようやく振り返った。
「我々も同じことをやったのではないかと言っている」
イワノフの顔から一瞬血の気が引いた。
だがそれは本当に一瞬だけだった。次の瞬間には机が鳴った。
「違わない!」
拳だった。イワノフが机を叩いていた。
ヴィタリーの目だけが動いた。ヤトフはただ彼を見ていた。
「違わないから言っているんです!」
イワノフは叫んだ。
「我々も間違えた!」
その声には怒りよりもっと古い悔恨が混じっていた。
「私もいました、アフガンに!ムジャヒディンと殺しあった!」
拳が震えている。
「我々が焼き尽くした村を見た! 民間人の死体も見た! 私自身その場で命令もした! 撃てと! 進めと! 疑わしい車両を止めろと!」
喉が詰まる。それでも止まらない。
「だから何だというんです!」
ヤトフの目が細くなった。
「我々が手を汚したから次に誰かが同じことをする時、黙って見ていろというんですか!」
「そんなことは言っていない」
「同じでしょう!」
「違う!」
今度はヤトフの声が響いた。窓ガラスが震えたように感じられた。
「私は君に資格の話などしていない!」
二人の視線がぶつかった。
「国家を動かす話をしているんだ!」
ヤトフは机へ戻った。
「君が怒るのは自由だ。私も腹が立つ。あの報告書を読んで何も感じないほど、私は耄碌していない」
一枚の紙を持ち上げる。そこにはバグダッド市内の病院における推計死亡数が記されていた。
「だがロシアは君の拳では動かん」
紙を机に置く。
「我々が制裁を破ればどうなる。アメリカとの関係は。西側から入っている資本は。まだ立ち直ったばかりの経済は。守るべき中央アジア諸国は。ベラルーシは」
ヤトフは一つずつ数えた。
「救おうとしたイラク人一人のために別の場所で十人を貧しくするなら、それもまた政治の罪だ」
イワノフは肩で息をしていた。
「では……」
声が低くなる。
「何も、しないと?」
ヤトフは答えなかった。少なくともイワノフが求めているような答えを、その場で口にすることはなかった。
「私はあそこで医者に会いました」
イワノフが言った。
「毎日死者の名前を書いている男です」
病院の薄暗い廊下。空になった薬棚。小さな帳簿。
記憶がモスクワの執務室にまでまとわりついているようだった。
「私はもう」
イワノフはゆっくりと言った。
「知らなかったとは言えません、見てしまいました。もう二度と後ろにだれかを置いていくなどできないんです」
その時。隣からヴィタリーの声が差し込まれた。
「元帥閣下」
二人が同時に見る。
「病院について一点だけ」
ヤトフが顎を引いた。
「言え」
「イラク側による誘導です」
イワノフの眉間にしわがよった。ヴィタリーは平然としていた。
「病院を見せること自体が我々を動かすための政治工作でした。案内役本人も認めています」
ヤトフは黙って聞いた。
「ただし」
ヴィタリーは続けた。
「患者は仕込みではありません」
イワノフを見ることなく言う。
「死者も。薬品庫も。街の荒廃も。浄水設備も」
一拍。彼も一瞬だけ瞳を揺らめかした。アフガニスタンはヴィタリーにとっても他人事ではない。この部屋にいる三人は立場も任務も違った。だが誰一人あの戦争と無縁ではなかった。
「三地区を通過しました。政府が外国人向けに整備している区域を外れた時点で、同様の劣化を確認しています」
「結論を言え」
ヤトフが訊いた。ヴィタリーは少し考えた。
「演出された事実です」
ヴィタリーはそれだけをはっきりと告げた。
「演出であることと事実であることは両立します」
再び沈黙。隣室ではそのすべてをヴィクトル・ペトロフが聞いていた。
扉は閉まっている。だがヤトフとイワノフの声量では、そんなもの意味などない。
ヴィクトルはソファに座り、膝の上で両手を組んでいた。
口を挟むつもりはなかった。
少なくとも、まだ。
向かいの机ではアルドナが一言も発さず、万年筆を走らせている。
紙には思考を整理するための走り書きが流れていく。
医薬品、民生設備の輸入、特に上下水道の浄水設備。
発電機部品による医療の再起動、小児用栄養剤の配布。農業用資材の導入。
さらに紙をめくる。
HRWやアムネスティの内、欧州良識派との接触。
既存の制裁委員会方式からの切り替え、個別許可の打診。
審査期限引き延ばしへの対抗と制裁委員会でのコンセンサス形成。
米英による反対への切り崩し。個別承認を必要とする品目の縮小。
民生品については原則許可、禁止品のみを列挙する方式への転換。
ヴィクトルはちらりとその文字列を見た。
アルドナはそこで一本の線を引いた。
そしてその下に新しい言葉を書いた。
――人道物資包括許可方式。
ヴィクトルの目が止まる。アルドナはまだ顔を上げなかった。
隣室ではまだ二人の軍人が睨み合っている。
過去に手を汚した男と。
過去に手を汚した男を指揮した男。
そのどちらも今度こそ正しくありたいと思っている。
だが国家にとって、正しさだけでは何も決められない。
ヴィクトルはアルドナの紙を見つめた。
「……続けてくれ」
小声でそっと彼は言った。
アルドナの万年筆が再び走り始めた。




