第二部-23 窮状
翌日、バグダッド。市民病院玄関前
病院の正面玄関から古びた担架が一台運び出されてきた。白い布が掛けられている。
大人ではない。足元まで布を掛ける必要がないほど小さかった。
ヴィタリー・アルスラノフはその担架を目で追った。
病院の前庭にはかつて噴水だったらしい円形の窪みがある。水はない。底には砂と紙屑が溜まり、ひび割れたタイルの間から雑草が伸びていた。その脇にイラク政府の黒い公用車が二台停まっている。さらに病院の入口を見張る私服の男が二人。
通りの向こうには新聞を読んでいる男が一人。
監視なのか護衛なのか、ヴィタリーは煙草に火をつけながら考える。
「大佐は長いですね」
隣に立つターリクが言った。ヴィタリーは時計を見なかった。
「医者と話しているんだろう」
ターリクはヴィタリーに視線を向けた。
「あなたは入らなくてよろしいのですか」
「俺まで入れば視察になる」
ターリクは小さく笑った。笑ったというより口元を動かしただけだった。
二人はそれきり黙った。しばらくして彼はたばこの煙を吐く。
乾いた風がすぐにそれを攫っていった。
「ずいぶん手の込んだ芝居だな」
ターリクの顔からわずかに笑みが消えた。
「何のことでしょう」
ヴィタリーは病院を見たまま言った。
「言う必要があるか?」
ターリクは否定しなかった。
「大佐をお招きしたのは我が政府です」
「知っている」
「病院への視察を発案したのは、私です」
ヴィタリーに驚きはなかった、明らかにバアス党本来のやり口ではなかった。
「それも知っている」
ターリクが横目でヴィタリーを見た。
「ではなぜ止めなかったのです」
その問いにヴィタリーは初めて彼を見た。
四十代半ば。整ったスーツ。疲れた目。
バアス党の役人としては驚くほど表情が残っている男だった。
「止める理由がない」
ターリクの眉がわずかに動いた。
「我々が何をしようとしているかお分かりなのでしょう」
「分かっている。だから止めなかった」
「……どういう意味です」
ヴィタリーは煙草を指に挟んだまま病院の玄関を顎で示した。
「中を見るのは大佐だ」
そしてターリクを見た。
「俺はお前たちを見る」
一瞬。ターリクの表情が止まった。ヴィタリーはそれを見逃さなかった。
モスクワを出る前、ヤトフ元帥は彼に言づけていた。
大佐の行動を制限する必要はないと。ただし誰が近づいたか。
何を見せようとしたか。何を見せなかったか。
それだけは全部覚えて帰れと。
フセイン政権がイワノフを利用しようとしていることなど最初から分かっている。
むしろ問題はなぜ利用しなければならないのかだった。
国家は余裕がある時には外国軍人一人の感情など気にしない。
大使館を通し、外務省を通し、声明を出す。新聞には威勢の良い言葉をのせ、国連で対抗姿勢を示す。本来はそれでこと足りるはずだ。
それでも足りなくなった時、初めて人を使う必要が出た、そういうことだろう。
砂漠で戦った男。部下を死なせた男。自分の目で死体を見てきた男。
その男の怒りでモスクワを動かそうとしている。
問題はそこだ、そこまでしなければならない理由があるのか。
「あなた方は我々の宣伝だと思っている、と」
ターリクが言った。
「ならば大佐に何を見せても動く気はないのでは?」
「逆だ」
ヴィタリーは即答した。
「宣伝ならどこを切り取ったかを見る。何を隠したかを見る。どこまで金をかけて舞台を作ったかを見る」
病院の壁を見た、爆撃の焦げ跡が残ったべトン。必死に消火し、取り繕う余地すら失ったそれを。
「それで舞台の外まで腐っていたらそれも見る」
ターリクは黙った。その視線の先で老人が壁にもたれて座り込んでいた。
付き添いらしい少年がその肩を支えていた。
「ここまでしなければならないほど苦しいのか」
ヴィタリーが訊いた。ターリクはすぐには答えなかった。
通りを一台の軍用トラックが通った。見るからにひび割れたタイヤが空転し、乾いた土を蹴った。
「あなたはどう判断しますか」
「俺が訊いている」
ターリクは病院を見上げた。三階の窓が一枚割れている。
代わりに段ボールが貼られていた。
「……はい」
小さな声だった。
「苦しい、です」
ヴィタリーは何も言わなかった。
「政府は崩壊していません。軍もまだ動いてる。警察もです。役所も動いている。大統領府の電気も消えていない」
ターリクはそこで一度言葉を切った。
「だから外国人には国がまだ機能しているように見える」
「実際機能しているだろう」
「ええ」
ターリクは頷いた。
「だから困るのです」
ヴィタリーが目を細めた。
「完全に崩壊すれば世界は見ざるをえない。難民が国境へ押し寄せ、死体が道路に並び、役所が焼かれる。そうなれば誰も無視できない」
病院の扉が開き、看護師が出てきた。木箱を抱えている。
汚れすり切れた患者の包帯を煮沸するために、彼女は彼らの前を通り過ぎて行った。
「だが我々はまだ立っている」
ターリクは続けた。
「頭を垂れずに立ったまま死につつある」
ヴィタリーは煙草を地面に落とし、靴底で消した。
「だからこそ大佐に見せたと」
「はい」
「我々を動かすために?」
ターリクは答えなかった。
「それでロシアを動かす。少なくともモスクワにはこの制裁を疑っている人間がいるからな」
そこで初めてターリクがヴィタリーを見た。
「動かなくても構いません」
「ほう」
ヴィタリーは関心を持ったようにターリクを見つめた。
「信じてもらえればいい」
「何をだ」
ターリクの視線が先ほど運び出され放置された小さな担架を追った。力なく母親が膝をついている。あまりにもありふれた、だが起こってはならない悲劇だった。
「我々が嘘をついていないことを」
ヴィタリーは鼻から短く息を吐いた。
「嘘はついているだろう」
ターリクは苦い顔をした。
「……そうですね」
予想外に素直な返事だった。
「戦争を始めたのは我々です。クウェートへ入ったのも我々だ。そこに言い訳の余地はない。大統領が決断し、軍が動いた」
ターリクの声は淡々としていた。
「我々にも責任はあります、だからこそ我々は賠償という義務を果たしている」
ヴィタリーは何も挟まなかった。
「だが」
ターリクは病院を見た。
「中で死んでいる子供はクウェートへ侵攻していない」
ありふれた言葉だった。感情に訴え、国家の責任から逃げるための言葉にも聞こえる。
だがそれでも事実だった。
戦争には責任がある。法があり、賠償があり、国家が負うべき義務がある。
ならばその責任を負う者と負わせてはならない者の境界もまたあるはずだった。
風が吹いた。病院の入口に掛けられた布が揺れた。
ヴィタリーはしばらくターリクの横顔を見ていた。
少なくとも今の言葉はフセインから渡された台本には聞こえなかった。
「それを大佐に言えばいい」
「私が言えば宣伝になる」
今度はヴィタリーが少し笑った。
「よく分かっているじゃないか」
そこで病院の扉が開いた。二人は同時にそちらを見た。
イワノフが出てきた。小柄な身体に怒気をまとわせて。
ヴィタリーは何があったか訊く気はなかった。
イワノフは階段を降り、二人の前まで歩いてきた。
「帰るぞ」
一言それだけだった。ヴィタリーは頷いた。
ターリクも黙って道を空けた。狙いは成功したのだろう。
だがその成功を喜んでいる人間は、そこには一人もいなかった。




