第二部-22 表と裏
翌々日午前、式典会場:バグダッド中心部の「無名戦士の墓」。
傾いた円盤を模した巨大なモニュメントの下に、軍の儀仗兵が整列し、イラク国旗が砂漠の風にはためいている。朝の光が白く、石造りの広場を容赦なく照らしていた。
イワノフは外国来賓席の端に座っていた。「国防省付き技術査定官」の肩書きにふさわしい、目立たない位置。隣にはヴィタリー・アルスラノフが、少佐の階級章をつけた軍服姿で、背筋を伸ばして座っている。
来賓席にはロシアの他にも、数カ国の駐在武官や外交官がいた。中国、インド、ヨルダン。そしていくつかのアフリカ諸国。西側の姿はない。この席に座ること自体が、ワシントンへの回答でもあった。
式典が、厳かに始まった。
軍楽隊がイラク国歌を奏でる。参列者全員が起立し、直立不動で旗に敬意を払う。イワノフもまた立ち上がった。他国の国歌に対する、軍人としての礼儀。だが、彼の目は演壇の方を見ていた。
壇上には、バアス党の幹部たちが並んでいる。軍服の者、スーツの者。いずれも顔に深い皺を刻み、砂漠の太陽に焼かれた肌をしている。
そしてその中央に、サーミド・フセインがいた。
軍服、胸には勲章。髭は整えられ、黒い瞳は広場の隅々まで見渡している。六十に届く年齢のはずだが、背筋は真っ直ぐで、立ち姿に老いの翳りはなかった。イワノフは、この男を初めて肉眼で見た。
三年前砂漠で戦った時、フセインは「名前」でしかなかった。モスクワの作戦室で語られる記号。「バグダッドの独裁者」。だが今、数十メートル先に立つこの男は、記号ではなかった。
演説は計算された演出として力強く、そして腹の底から響く強制力を持って開始される。
イワノフのなまった語学力では、全てを拾えるわけではない。だが、それでも断片は聞き取れた。
「——我々の殉教者たちは——」
「——敵は、我が民を飢えさせ——」
「——だが、イラクは屈しない——」
定型句だ。どの国の追悼式典でも聞くような、英雄と犠牲と不屈の言葉。だが、イワノフが注視していたのは、フセインの言葉ではなかった。参列者たちの顔だ。
最前列に座るバアス党の老幹部たち。彼らの目が、フセインを見上げている。その目に浮かんでいる感情には確かに恐怖もある。だが同時に、畏敬もあった。
この国では、弱い指導者は殺される。ファイサル王家は滅ぼされ、摂政は路上で引き裂かれた。バアス党の内部でさえ、何人もの男が権力闘争の果てに消えた。
そしてその終わりである七九年の党大会で、フセインはカメラの前で粛清を執行し、権力の頂に上り詰めたのだ。当時フセインに名前を読み上げられた党幹部たちは一人ずつ席から引きはがされ、連行されていった。残された者たちは拍手をした。拍手しなければ、次は自分だったからだ。
その血の海を泳ぎ切って、今あの壇上に立っている。
それだけで——それだけで、この国の人間にとっては、畏怖の対象だった。
さらに、フセインが成し遂げたものが確かにある。識字率、女性の就学率、世俗的な法制度。中東で最も進んだ公衆衛生。人口で圧倒的優位にある宗教国家イランに対抗するため、女性官僚・軍人も含めた就労への門を開いたのもまたフセインであった。それらは、革命後のイランという脅威に対して「我々は文明国である」と西側とソ連の両方に売り込むための仮面だ。イラン・イラク戦争の八年間、西もソ連もその仮面を歓迎し、喜んで武器を売った。
だが仮面は、被り続けるうちに顔になる。
参列者の中に、制服を着た女性将校がいた。三十代だろうか。短く切った髪、鋭い目。フセインの演説に、微動だにせず聞き入っている。この国で女が軍服を着て式典に列席できること自体が、バアス党の近代化がもたらした現実だった。
その女性将校の目にも畏敬があった。フセインが作った国に育ち、フセインが整えた軍に入り、今フセインが招いた式典に座っている。そしてフセインが招いた災禍——湾岸戦争と、その後の制裁——によって、自分の国が死にかけていることも知っている。畏敬と怒りが、矛盾なく同居している。
イワノフは、その顔を見て——胸の奥で、何かが軋んだ。
この光景を彼は知っている。祖国にもかつて同じものがあった。レーニンの廟の前で直立不動の兵士たち。革命記念日のパレードで、誰もが一つの旗の下に立った日々。暴力と理想の混合物で建てられた国。
労働者の怒りを踏みつぶさんとする西側に対し、ただ無謀に立ち向かった祖国。
だが祖国は一度倒れ、そこからまた歩き出した。現状を認め誇りを胸に、仮面を脱いだのだ。痛みの中でそれでも前へ進むために。自分もその一歩を支えた側にいた。この国は——まだ、そこにいる。
「大佐」
耳元で息のような声がした。ヴィタリーだった。
唇をほとんど動かさず、式典を見つめたまま、イワノフにだけ聞こえる音量で囁いていた。
「のまれるな」
短い。だがその二語には、ヴィタリー・アルスラノフという男の全てが込められていた。
この男もまた軍人だ。祖国のために命を賭け、KGBの追跡の中モスクワをかけずりまわり、イランとの極秘交渉の封筒を命がけで運んだ男。愛国心が何であるかを、言葉ではなく肉体で知っている。
だからこそ分かる。この式典の空気が、どれほど危険かを。
厳粛さ。追悼。国旗。軍楽隊。殉教者の名。そして、壇上に立つ一人の男への、恐怖と敬意の入り混じった視線。それは——軍人の魂を揺さぶるように設計された装置だ。
ヴィタリーもまた知っている。イワノフが単なる査定官としてこの席に座っていないことを。この男の中には、三年前にこの国の砂漠で部下を失った怒りが、まだ燃えている。そしてその怒りは、フセインの演出する「不屈の国家」という物語と、危険なほど共鳴しうる。
同胞の血を流した戦場の記憶。その戦場を生んだ国の式典。壇上の男が語る「犠牲」と「誇り」。それらが一つに溶け合えば——イワノフは、モスクワの軍人であることを忘れる。
「任務を、思い出せ」
ヴィタリーの二度目の囁き。イワノフは、拳を膝の上で握ったまま、小さく頷いた。
演説が終わった。拍手が広場に響く。割れるような拍手ではない。だが重い。
一つ一つの手が、確信を持って打たれている。フセインは壇上から会場を見渡し、かすかに顎を引いた。それだけだった。笑みも、手を振る動作もない。王は振る舞わない。王はただ、そこにいる。
参列者たちが席を立ち始めた。
ターリクが来賓席に歩み寄ってきた。スーツの襟元の鷲の徽章が、朝の光を反射している。
「いかがでしたか」
社交的な笑み。だがその奥にあるのは——やはり、あの「恥」に似た何かだった。この式典の荘厳さと、式典の外に広がる崩壊した街との落差を、この男自身が最もよく知っている。
イワノフは、立ち上がった。
「……立派な式典だった」
イワノフはただそれだけを告げた。
ターリクは頷いた。そして、少し声を落とした。
「大佐。明日は査定業務の初日ですが、午前中に少し時間があります。もし、よろしければ——以前、この地区にあった総合病院を、ご覧になりますか。設備の残存状況を確認するという意味でも、有益かと思いますが」
ターリクの目が一瞬だけ、社交辞令の膜を脱いだ。
「——債権とは無関係の設備も、ございますが」
それは、フセインの脚本通りの誘導だったのかもしれない。あるいは、ターリク自身の判断だったのかもしれない。この男の中で、その境界はとうに曖昧になっていたのだろう。
イワノフはヴィタリーの方を見なかった。見る必要はなかった。背中にあの囁きがまだ残っている。
「案内を頼む」
公式な技術査定官として、これから直面するであろう現実を正面から引き受ける覚悟とともに、イワノフははっきりと言い切った。
ヴィタリーはかすかに息をのんだが、結局は何も言わなかった。




