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第二部-21 恥辱

1994年4月。バグダッド、サーミド国際空港。


滑走路の陽炎が、着陸したイリューシンIl-76輸送機の輪郭を歪めていた。エンジンが停止し、機内の振動が消えると、代わりに砂漠の熱気が貨物室の隙間から忍び込んでくる。乾いた砂と、ジェット燃料と、腐りかけたアスファルトが混じった匂い。


三年前と、同じ匂いだった。


ウラジーミル・イワノフ大佐は、タラップを降りながら、その匂いが肺の奥に染み込むのを感じた。前回は夜だった。シリア経由でZILに揺られながらこの国に足を踏み入れた。今回は白昼。肩書きは「国防省付き技術査定官」。懐には財務省の印が押された債権一覧表。だが、覚えている。この国の匂いを。


「大佐」


背後から、低い声がかかる。


振り返ると、軍服姿の男が半歩後ろに控えていた。国防省技術局の少佐の階級章。短く刈り込んだ髪。特徴のない平凡な顔。だがその目だけが、空港の建物、駐機場の車両、屋上のアンテナ、遠方の管制塔を、呼吸するように走査している。ヴィタリー・アルスラノフ。GRUからの付添人だった。


かりそめの階級章の下に、この男が何者であるかを知っているのは、イワノフとモスクワのヤトフ元帥だけだ。公式にはイワノフの技術補佐官。実態は——監視と護衛。イワノフ自身を守ると同時に、イワノフが余計なことをしないかを見張る目でもある。


「出迎えが来ています」


ヴィタリーの顎が、ターミナルの方角を示した。そこには、黒塗りのメルセデスが1台、エンジンをかけたまま待機していた。古い型で砂埃にまみれてはいるが、車体はよく磨かれている。制裁下でも、体裁を整える余裕はまだ残っているということか。


メルセデスの脇に立っていた男が、イワノフたちに向かって歩き始めた。


四十代半ば。仕立ての良いスーツ。だが襟元にバアス党の鷲の徽章。髭は整えられ、靴は抜かりなく手入れされている。痩せてはいたが、飢えた痩せ方ではなく、元来がそういう体格なのだろう。浅黒い肌と鋭い鼻梁が特徴的な男だった。


「ようこそ、バグダッドへ。イワノフ大佐」


流暢なロシア語だった。


「ターリク・アル=ラシード。外務省経済協力局。本日より、査定団の案内を務めます」


差し出された手を、イワノフは握った。乾いた、硬い手だった。少なくとも、市井から浮いた男ではない。


「モスクワにいたことが?」


イワノフが訊いた。ロシア語のアクセントに、パトリス・ルムンバ名称民族友好大学の匂いがあった。ソ連時代、第三世界のエリートが送り込まれた場所。ターリクの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「77年から82年まで、当時の経済学部です。モスクワの冬は、今でも骨に響きますよ」


軽い社交辞令。だが、その声の底に、何かが沈んでいた。モスクワ留学の記憶は、この男にとって輝かしい過去であると同時に、今との落差を測る残酷な物差しでもあるはずだ。


ヴィタリーが無言で、イワノフの荷物を車のトランクに積んだ。その動作の中で車体の底、ホイールアーチの裏、ドアの内側を、指先で素早く確認しているのをターリクは気づいていない。あるいは、気づかないふりをしている。


車が空港を出た。バグダッドの街が、窓の外に流れ始める。

最初の数分は、政府が維持している地区だった。大通り沿いにはフセインの巨大な肖像画。勝利のアーチ。党の建物にはためくイラク国旗。街路樹は剪定され、交差点には交通警官が立っている。


「大佐は、以前にもイラクにいらしたことが?」


ターリクが、バックミラー越しに訊いた。助手席から。運転手は別にいる。

イワノフは、一拍置いた。


「仕事でね」


それ以上は言わなかった。ターリクも追及しなかった。公然の秘密を、わざわざ確認する必要はない。

しばらくして車が大通りを過ぎ、南へ向かうにつれて、風景が変わり始めた。


最初に消えたのは街路樹だった。次に、街灯。舗装が荒れ、穴が増える。建物の外壁にひびが走り、窓ガラスが割れたまま段ボールで塞がれている。路上のゴミが増え、水たまりが濁った緑色に変わる。子供たちが裸足で走っているのが目に留まった。イワノフは、窓の外をそれとなく見つめていた。

内心では、衝撃を受けている。彼が知っているバグダッドではもはやないのだと。


「この地区は——」


ターリクが口を開いた。その声は、先ほどの社交的なトーンとは微妙に違っていた。


「かつては、バグダッドで最も医療水準の高い地区でした。1985年にフランスの技術援助で建設された浄水場があり、総合病院は中東でも有数の設備を誇っていた」


過去形。全てが過去形だった。


「浄水場は、91年の空爆で損傷を受けました。修理に必要な塩素注入ポンプの部品は、安保理の『二重用途品目審査』に引っかかり、三年間、輸入許可が下りていません。化学兵器に転用可能、という理由です」


ターリクの声は、淡々としていた。だが、ハンドレストに置かれた左手の指が、わずかに震えている。怒りではない。イワノフには、それが何か分かった。


恥だ。


客に、散らかった家を見せている主人の恥ずかしさ。「本来の我々はこうではない」と叫びたいのを、歯を食いしばって堪えている男の、踏みつけられた屈辱。

ターリクは知識人だ。ソ連で教育を受け、バアス党の近代化路線を信じ、自分たちが中東に世俗国家を建てたのだという自負がある。識字率。女性の就学率。公衆衛生。かつてはアラブ世界の模範だったこの国のなれの果てを、外部の客人に見せる屈辱。中東の男にとって、それは耐えがたいものなのだろう。


「塩素ポンプ一つで、浄水場は動くのか」


イワノフが、低く訊いた。ターリクは、少し驚いたように目を向ける。


「……ええ。ポンプと、いくつかのフィルター部品があれば。技術者はいます。設計図もある。ただ、物がない」

「物がないのに、技術者は残っているのか」

「彼らに、どこへ行けと?」


ターリクの声が、初めて硬くなった。沈黙が車内に落ちた。

封鎖されたこの国から、どこに行くこともできはしないのだと、ターリクは暗に示していた。

そしてそれに納得しているわけでは、ないのだろう。


一方後部座席の隅で、ヴィタリーは窓の外を見るふりをしながら、ターリクの背中を観察していた。この男が本物の官僚なのか、それともフセインの情報機関が仕込んだ監視役なのか。おそらく両方だ。バアス党の中堅幹部であり、同時にムハーバラート(秘密警察)への報告義務を負っている。それがこの国の官僚というものだ。


だが浄水場のくだりで声が震えたのは、演技ではない。ヴィタリーの目はそれを見逃さなかった。

車はさらに南へ進む。


交差点で止まった時、イワノフの窓のすぐ外に、痩せた女が立っていた。女の目は虚ろで、車を見ても何の反応も示さなかった。黒塗りのメルセデスが通り過ぎるのは、日常の風景なのだ。


イワノフの右手が、膝の上で握られていく。車は、外務省の迎賓館に向かって走り続ける。式典は明後日。査定業務の日程は一週間。だがイワノフの目は、迎賓館の方角を見ていなかった。窓の外の、壊れた街から目が離れない。


ヴィタリーは、それを記録した。表情も、手も、目も。彼はかすかに、内心でため息をついたのだった。

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