第二部-20 国連安保理決議661号
1994年早春 モスクワ、クレムリン。
春の気配はまだ遠い。大統領府の窓の外には鉛色の雲が低く垂れ込め、中庭の残雪が汚れた灰色に変わりかけていた。
ヴィクトル・ペトロフの執務室。重厚な机の上にはいつものように書類の山が築かれているが、今日はその頂上に一通の封筒が置かれていた。イラク共和国大使館の紋章が押されたクリーム色の厚紙。中身は既に開封されている。
ドミトリー・ヤトフ元帥は窓際に腕を組んで立っていた。執務室の椅子には座らない。この男はいつもそうだ。座るのは会議の円卓だけで、他人の部屋では壁か窓を背にする。老いた鷲のような目が机の上の封筒を睨んでいた。
アルドナ・カヴァラウスカイトは部屋の隅のソファに沈んでいた。大きめのスーツの袖から指先だけを覗かせ、膝の上に広げた資料に目を落としている。国連安保理決議661号の条文コピーだった。
沈黙を破ったのはヤトフだった。
「……招待状、か」
短い。だがその二語に込められた不信は、充分すぎるほど濃かった。
ヴィクトルは封筒の中身を指で弾いた。フセイン政権が主催する「湾岸戦争終結三周年記念式典」。名目は戦没将兵の追悼と国家再建の決意表明。招待対象は各国駐在武官と限られた外交関係国の要人。
そしてその末尾に手書きの一行が添えられていた。
『ウラジーミル・イワノフ大佐の御臨席を特に希望する』と。
「名指しですか」
ヴィクトルは感情を排した声で呟いた。
(フセインめ)
あの男は愚かではない。むしろ危険なほど聡い。国民を飢えさせながら式典を開く程度の厚顔は独裁者の基本動作だ。だがわざわざイワノフを名指しする。公然の秘密をさらに公然とする意図がある。
「罠だな」
ヤトフが断じた。
「イワノフ大佐の存在を西側に見せつけ、我々とバグダッドの繋がりを既成事実化する。あるいはイワノフ大佐を人質にして、さらなる軍事支援を引き出す腹積もりか」
「後者は薄いでしょう」
ソファからアルドナの声がした。資料から目を上げないまま。
「フセインは、ロシアが今の状態でイラクに軍事支援できないことを分かっています。彼が欲しいのは兵器ではない」
「では何だ」
ヤトフが振り返った。アルドナはようやく顔を上げた。スーツの袖口から細い指が伸び、机の上の封筒を指した。
「証人です」
沈黙が落ちた。窓の外で風が唸った。
「制裁は四年目に入りました。安保理決議661号は包括的経済封鎖です。建前は武器禁輸と侵略への制裁ですが、実態は——」
アルドナは膝の上の資料を閉じた。
「民生経済の窒息です。医薬品と食料は例外扱いとされていますが、許可制度と審査の遅滞で現場にはほとんど届いていない。浄水設備の部品すら止められています」
「それは知っている」
ヴィクトルが遮った。だがアルドナはかすかに首を振った。
「知っていることと、見ることは違います」
その一言が空気を変えた。
「フセインはイワノフ大佐に見せたいのです。制裁が何をしているのかを。砂漠で米軍と戦った男に、今度は別の戦場を見せる。病院を。薬のない薬棚を。帳簿に並ぶ子供の名前を。そして大佐が帰国してその目で見たことを報告すれば——」
「我々が動かざるを得なくなる、と」
ヴィクトルは椅子の背に体を預けた。天井を見上げる。
(計算は正しい。不愉快なほどに)
フセインはロシアの良心に賭けているのではない。ロシアの利害に賭けている。イラクへの債権が焦げ付けばロシア国庫は数十億ドルの損失を被る。制裁が続けばフセイン政権はいずれ崩壊し、次の政権が旧債務を引き継ぐ保証はない。ロシアにはイラクを延命させる実利がある。
だがそれを公然と行えばワシントンが黙っていない。自動車産業の交渉、エネルギー市場への参入、G7との綱引き——今アメリカを刺激するのは下策中の下策だ。
「断れば?」
ヤトフが問うた。
「断ればフセインは別の相手を探します。中国か、フランスか。そして我々はバグダッドへの数少ない窓を自ら閉じることになる」
ヴィクトルは指を組んだ。
「加えてイラクの状況が仮にHRWやアムネスティを通じて国際世論を動かした場合——我々が事前に関与していなければその波に乗ることもできない。後出しでは遅い」
「つまり行かせろと」
ヤトフの声が低くなった。
「イワノフ大佐をフセインの舞台装置にするのか。彼は三年前、砂漠で部下を失っている。政治の道具にされることを私は認める気はないぞ。」
その言葉には指揮官としての怒りが滲んでいた。ヤトフにとってイワノフは「部下」ではなく「預けた命を返してきた男」だ。その男を再び砂漠の政治に放り込むことへの抵抗。
ヴィクトルはヤトフの目を真っ直ぐに見た。
「元帥。ただで式典には行かせません」
ヤトフの眉が動いた。
「フセインの舞台に招待客として乗る必要はありません。我々にはもっと退屈で、もっと合法的な名目がある」
ヴィクトルは机の引き出しから一枚の書類を取り出した。財務省の印が押された対イラク債権の一覧表。
「イラク向け軍事債権の現物査定です。ソ連時代に輸出した装備の残存状況を確認し、債権回収の実現可能性を評価する——これは純然たる財務案件であり、安保理決議に抵触しない」
アルドナが小さく頷いた。
「債権回収のための資産査定は制裁の例外規定に該当します。物資を送るのではなく、既存の帳簿を確認するだけですから。国連制裁委員会への事前照会は必要ですが、拒否される理由がない」
「イワノフ大佐の肩書きは」
ヤトフが確認した。
「国防省付き技術査定官。軍事資産の残存評価という名目であれば、現役将校の派遣に不自然はありません」
ヴィクトルは封筒を裏返した。フセインの招待状の裏面は何も書かれていない白紙だった。
「式典への出席としては丁重にお断りする。だが同時期に『偶然』バグダッドに入る査定官が代理出席することは止めようがない。我が国は正規軍人をあの国から引き揚げていますから。そしてフセインが何を見せたいのであれ、イワノフ大佐は我々の名目で動く。彼の名目で、ではなく」
道具にはさせない。こちらの人員として送る、これが筋書きだとヴィクトルは示した。
ヤトフは長い沈黙の後、腕を組み直した。
「……彼には、私から話す」
それは承認だった。
アルドナはソファから立ち上がり、窓際に歩み寄った。天候が崩れつつある空を見上げる。
「一つだけ」
彼女の声はいつもの穏やかなトーンだった。だがその奥にかすかな棘があった。
「大佐が見てくるものは帳簿の数字ではありません。あの国では今、子供が死んでいます。合法的な制裁の下で。国連決議に基づいて。……彼が帰ってきたとき、査定報告書だけを求めるのは少し酷かもしれません」
ヴィクトルはアルドナの背中を見た。スーツの肩がわずかに強張っている。
彼女は知っている。法が正義を装って人を殺す構造を。合法的な手続きの下で国民が静かに死んでいく光景を。バルトで。そして今、メソポタミアで。それはヴィクトルへの批判でもあることを、彼女はわかっていた。
「報告は全て聞く」
ヴィクトルは言った。彼は彼女のささやかな批判に対し何も言わない。
「査定の結果も。それ以外も」
アルドナは振り返らなかった。だがその肩の力が少しだけ抜けたように見えた。
ヤトフが黙って部屋を出た。重い靴音が廊下に遠ざかっていく。
執務室に残されたヴィクトルは封筒を引き出しの奥にしまい、次の書類に手を伸ばした。
国家は止まらない。止められない。イラクの子供が死んでいくなか、フセインが何を企んでいようと、この机の上の書類は明日も増え続ける。
だが引き出しの奥にしまった封筒のことを、彼は幾時が過ぎたあとウォッカのグラスを傾けながら、もう一度だけ思い出すことになる。




