第二部-19 封鎖された国
ロシア人は、病院の入口に座り込む子供たちを再度見た。膝を抱え、壁にもたれ、眠っているのか気を失っているのかも分からない小さな体。母親らしき女が、その額に濡れた布を置いていた。布はもう乾いているのに。
彼はかすかに目を背ける。アッバースがさらに一歩、ハーリドの前に進み出た。
それは敵意ではない。だが、敵意に変わる準備だけはできていた。食うために軍服を脱いだ男は、この街には多い。だが、アッバースはその多くとは違った。彼はまだ、人を殴る前に考えることができたし、誰のために殴るのかを選ぶことができた。
ロシア人は、その動きを見てわずかに目を細めただけだった。
そして、何事もなかったかのように、上着の内側へ手を入れた。
アッバースの肩が硬くなる。ハーリドもまた、息を止めた。
この国では、誰かが上着の内側に手を入れる時、それはたいていろくな意味を持たなかった。身分証か、拳銃か、秘密警察の印章か。いずれにせよ、医師にとって歓迎すべきものではない。
だが、ロシア人が取り出したのは、小さな紙包みだった。
油紙に包まれたそれを、彼はハーリドの前に差し出した。渡すのではない。落とすのでもない。あくまで、道端で偶然ぶつかった者に何かを返すような、つまらない仕草だった。ハーリドは受け取らなかった。
ロシア人は、低い声で言った。
「君が、落としたんだろう」
ひどく訛ったアラビア語だった。無論薬を落としてなどいない。命よりも重い薬だ。落とすがはずがない。ハーリドはロシア人の顔を見た。彼は何も言わない。ただ、油紙を差し出している。
その時、アッバースが、周囲へ視線を走らせ、かすかに息をのむ。門の向こう、通りの端に男が立っていた。男は手帳を開いていたが、読んでいるようには見えなかった。病院の入口を見ている。あるいは、ただ見ているふりをしているだけかもしれない。
どちらでも同じだった。バグダッドの市内には、政権の目が張り巡らされている。
ハーリドは、意を決してゆっくりと油紙を受け取った。軽い。だが、指先に伝わる固い感触で、中身が菓子でも紙幣でもないことは分かった。彼は包みを少しだけ覗き見た。
アンプルだ。透明な小瓶が三本。
ラベルには、アラビア語ではない文字が並んでいた。英語でもない。ハーリドは、目をかすかに見開いた。見覚えがあったのだ。豊かとは言わなかった、それでも未来に希望が持てた時代に。
若いころに医療機器の説明書を読んだときに。あるいは注射器に、そしてイラクの病院に山ほど入ってきていた器材、その表面に刻まれていた角ばった異国の文字。
キリル文字。ロシア軍の医薬品だった。
彼は思わず、男の顔を見た。男は、病院の奥へ目を向けた。
「見せてくれ」
それだけだった。何を、とハーリドは聞き返さなかった。
聞き返す必要はなかった。彼は一瞬、目の前の男が何者なのかを考えた。
秘密警察か。
いや。すぐに、その考えが馬鹿らしくなった。ムハーバラートの連中は、こんなに怪しくはない。彼らはもっと自然に現れる。もっと退屈な役人の顔をして、もっと穏やかに名前を尋ね、公的な書類を盾に押し込んでくる。医師がいつ、誰に、何を渡したかを知りたいなら、わざわざ日に焼けたロシア人を用意する必要などない。
まして、異国の文字が書かれた軍用医薬品を、病院の門前で握らせるなど。
罠にしては、あまりにも下手だった。あるいは、下手に見せかけた罠かもしれない。
そこまで考えて、ハーリドは内心で薄く笑った。
自分に、それほどの価値はない。
彼は反政府活動家ではなかった。密輸業者でもなかった。国外の記者に数字を流す勇気もなければ、壁に大統領の悪口を書く愚かさもなかった。彼はただ、死ぬ者を少しでも減らそうとしている医師だった。
そして皮肉なことに、そういう医師はバアス党にとっても都合がよかった。民が死にすぎれば不満になる。だが医師がいれば、その不満は病院の廊下に留まり、政権の門までは届かない。ハーリドたちは、国家に逆らわない限り、国家の失敗を少しだけ覆い隠す包帯として使われる。
つまり、このロシア人は敵ではない。少なくとも、今ここで自分を捕らえに来た者ではない。
ハーリドは、かすかに頷いた。
それは同意というより、諦めに近かった。
「中へ」
彼は短く言った。
アッバースが先に歩いた。廊下の角、階段の下、割れた窓の外、動く影を一つずつ確かめる。ロシア人はその後ろを歩いた。足音が小さい。病院の床はひび割れ、ところどころに砂が溜まっているというのに、靴底がほとんど音を立てなかった。
医師の歩き方ではない。官僚の歩き方でもない。訓練された軍人、いや、今もなお訓練されている軍人の歩き方だった。
病院の中は、外よりも暑かった。電気は来ていなかった。天井の扇風機は止まり、羽根には埃がこびりついている。窓は開け放たれていたが、入ってくるのは風ではなく、砂と排気と、遠くで燃える何かの臭いだった。廊下には人が溢れている。
ベッドは足りない。椅子も足りない。床に敷いた毛布の上に、老人が横たわり、子供が膝を抱え、女が空の水筒を握りしめている。点滴台の代わりに、錆びた釘から紐で吊るされた瓶が揺れていた。中身は半分も入っていない。ロシア人は黙って見ていた。
驚きはしなかったのだろう。ハーリドは、それを奇妙に思った。かろうじて政府が認めた、国連職員などの外国人は、ここへ来ると二種類に分かれる。顔をしかめ、すぐに目を逸らす者。あるいは、必要以上に悲しそうな顔をして、こちらの苦痛を自分の良心の飾りにする者。
この男はどちらでもなかった。
彼は病院を、戦場の地図を見るように見ていた。
入口。階段。水の位置。寝ている者の数。動ける者の数。医師と看護師の数。薬棚のある部屋。外へ逃げる道。死者を運び出す裏口。それらを一つずつ、冷静に数えている。
だが、その目の奥に、何かが沈んでいた。怒りだ、とハーリドは思った。
この男は怒っている。ただし、その怒りをどこに向ければいいのか、まだ決めていない。
薬品庫の前で、ハーリドは足を止めた。
「ここだ」
鍵を開ける。薬品庫と呼ぶには、あまりにも貧しかった。棚には空き箱が並んでいた。箱は捨てられない。箱があるだけで、まだ何かが残っているように見えるからだ。ラベルの剥がれた瓶。期限の切れた軟膏。何度も煮沸され、曇った注射器。包帯は洗って干され、また巻かれていた。
ハーリドは、先ほど受け取ったアンプルを棚の奥へ置いた。
わずかな音だった。だがその音は、部屋の中でひどく大きく響いた。
「これで何人だ」
ロシア人が言った。ハーリドは、彼を見た。
「質問の意味による」
「命を延ばせる人数だ」
ハーリドは少し黙った。
「三人」
「救える人数は」
「一人いれば、神に感謝する」
ロシア人の頬が、ほんのわずかに動いた。ハーリドは机の上に置かれた帳簿を手に取った。表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。紙は貴重だった。だから字は小さく、行間は狭く、死者の名前はまるで密輸品のように詰め込まれていた。
彼は帳簿を開いた。見せるべきかどうか、一瞬迷った。だがいまさらだ。あるいはハーリドも、もう終わりにしたかったのかもしれない。そして、ただロシア人のほうへ帳簿を押し出した。
ロシア人は手を伸ばさなかった。覗き込むだけだった。
日付。年齢。体温。投薬量。死亡時刻。
ロシア人の視線が、一つの欄で止まった。
年齢、四歳。死因、肺炎。
次の行へ。
年齢、二歳。死因、脱水。
さらに次の行。
年齢、七ヶ月。死因、栄養失調。
ロシア人は、そこで目を上げた。
「これが、毎日か」
「毎日だ」
「これは、爆撃の時より多いのか?」
ハーリドはその問いを聞いた瞬間、初めて男に腹を立てた。爆撃、爆撃だと。
この男もまた、数で比べるのかと思った。爆弾で死んだ者と、薬がなくて死んだ者を、秤にかけるのかと。だが男の顔には好奇心などなかった。彼はただ、死の形を確かめようとしていた。
ハーリドは、帳簿に手を置いた。背表紙が垢にまみれている。
「爆撃は、あの時"多国籍軍"が落とした爆弾は」
彼は言った。
「音とともに光が走って、壁が崩れ、人が死んでいったのがわかったよ。誰が殺したのか、まだ分かりやすかった」
ロシア人は黙っていた。
「今は違う。音がしない。朝、子供が起きない。昼、老人の呼吸が止まる。夜、母親の乳が出なくなる。誰も撃ってなどいない。誰も爆弾を落としてなどいない。だが、死んでいくんだ。ああ、死んでいく。」
ハーリドは、自分の声が震えていないことに気づいた。それが少し嫌だった。だが言葉は止まらない。
「死因欄には病名を書いていく。肺炎、脱水、感染症、栄養失調。だが本当は違う。彼らは、薬がないから死んでいく。水が汚れているから死んでいく。食べ物が届かないから死んでいく。届くはずのものが、来ないから。」
たまっていたものがハーリドの口から劇薬のように漏れ出した。
「西側の、あのくそったれどもが通した国連決議に物資が止められているから、死ぬんだ。ふざけるな!」
沈黙が場に落ちる。彼は数瞬後、激した自分を恥じた。少なくとも、目の前のロシア人が自分たちを締め上げ、死を平和の代償だと放言しているわけではないのだ。ただの八つ当たりに過ぎない。
だが刺々しい言葉は止まらない。
「君の国では、こういうものにも名前があるのか」
ロシア人は答えなかった。その沈黙は長かった。外の廊下で、子供が咳き込む音がした。乾いた咳だった。肺の奥に何かが張りついて、それを剥がそうとしているような音。
ロシア人は、ゆっくりと帳簿に視線を落とした。
「ある」
彼は言った。アラビア語ではなかった。ロシア語だった。
ハーリドには意味が分からなかった。だが、その声音だけは分かった。
ひどく低く、ひどく怒りを込めた声だった。ロシア人は、今度はアラビア語で言い直した。
「あるんだ。だが、ここで口に出す言葉ではない」
ハーリドは笑いそうになった。この街で口に出せない言葉など、腐るほどある。
大統領の名。党の失敗。軍の飢え。密告者の顔。そして我知らぬ顔で出歩き、善意をふるっている国連職員。子供たちを殺している、本当の理由。
ハーリドは帳簿を閉じ、棚の奥に戻した。
「見たかったものは、見たか」
ロシア人は頷かなかった。ただ、薬品庫の戸口に立ち、廊下の向こうを見ていた。
そこでは、若い看護師が一人、痩せた少女の腕に針を刺そうとしていた。血管が細すぎて、なかなか入らないらしい。少女は泣かなかった。泣く力がないのだろう。
看護師が失敗し、針を抜く。その瞬間、ロシア人の手が、わずかに握られた。
指をひっかくようなしぐさだった。いら立ちと、怒りを。だがロシア人は何も言わない、或いは言えないのか。あるのは薬棚の空白と、息をするたびに軽くなっていく子供の胸だけだった。
ハーリドはその横顔を見て、ようやく理解した。この男は、自分たちを哀れんでいるのではない。
侮ってもいない。彼は、怒るために見に来たのだ。怒る理由を他人の言葉ではなく、自分の目で確かめるために。
そして今、この男は確かめてしまった。ハーリドはかすれた声で言った。
「名前は」
ロシア人は、少しだけ間を置いた。
「ウラジーミル、ウラジーミル・イワノフ」
ハーリドは、それ以上訊かなかった。ロシア人は見るものを見たのだろう。
彼に別れを告げることもなく、背を向け歩き出す。そして薬品庫を出る前に、もう一度だけ振り返った。
「帳簿を」
「何」
「捨てるんじゃない、いいな」
ハーリドは、苦く笑った。
「紙が続く限りはな」
ロシア人は、それを冗談とは受け取らなかった。彼は頷き、廊下へ出た。その背中は小さかった。
だがハーリドには、その背中に砂漠の熱と、鉄の匂いと、どこか遠い国の怒りが貼りついているように見えた。
大統領のケーキが国内でロードショーされる前に、書いてみようかとイラク編を始めました。
(その時々で影響うけたものがもろに出てますねΣ(・□・;))。
この事例は民間人飢え殺しとして当時多くの人が声を上げ、踏みつぶされた事例となります。
簡単なまとめですが・・・
湾岸戦争後の西側がまとめ上げた包括的対イラク制裁の人的被害については、1990年代当時、5歳未満児の過剰死亡が数十万人規模に達したとの推定が流通しました。Garfieldは1998年3月までに最低10万人、蓋然推定22万7000人の小児過剰死亡を示し、止めるべきだと、飢餓政策であるとラムゼイ・クラーク元司法長官などが声を上げていました。※ただUNICEF系調査から派生した約50万人という数字は、後年の人口統計研究で強く争われているのもここに付記します。それに意味があるかはともかく。
G7は同時期、制裁を「国連決議履行を迫る安全保障措置」と位置づけ、人道被害については「食料・医薬品例外」および「Oil-for-Food」によって緩和されると説明しました。しかし、この説明は、許可制度、二重用途品審査、物流・資金管理の遅滞が民間人の生存条件を破壊した事実を制度的に韜晦するものでもあったのです。結果浄水設備が崩壊し、水が汚れ、食料が手に入らず、絶望がイラクを覆いました。
この当時G7がナポリサミットで述べた言葉は以下の通りです。
(原文)
We reiterate our resolve to enforce full implementation of each and every relevant UN Security Council resolution concerning Iraq and Libya until they are complied with, and recall that such implementation would entail the reassessment of sanctions.
(訳)
我々は、イラクおよびリビアに関する関連する国連安保理決議の一つ一つについて、遵守されるまで完全履行を強制する決意を改めて表明する。また、そのような履行が制裁措置の再評価を伴うことを想起する。
またマデレーン・オルブライト米国連大使の発言ですが
(原文)
I think this is a very hard choice, but the price, we think the price is worth it.
(訳)
これは非常に難しい選択だと思います。しかし、その代価は、我々は、その代価に値すると考えています。
重ねて英国のキム・ハウエルズ政務次官が医薬品を止めたことに対する答弁で以下のように述べています。
原文:
Vaccines for yellow fever and diphtheria vaccines are also covered ... because they are capable of being used in weapons of mass destruction programmes.
訳:
黄熱病およびジフテリアのワクチンも対象に含まれる。なぜなら、それらは大量破壊兵器計画に使用され得るからである。
人工飢餓を引き起こしながらのこれら放言は、歴史に残りました(今でも見れます)。




