第二部-18 天秤の秤
1994年春、イラク共和国首都、バグダッド
バグダッドの朝は、砂埃の色をしていた。
太陽はまだ高くない。だが、街路に落ちる光はすでに白く乾ききっていて、崩れた壁の影を、病人の頬骨のように鋭く浮かび上がらせていた。かつて商店の看板が並んでいた通りには、焼け焦げた鉄骨と、割れたガラスと、誰かが持ち去ることさえ諦めたコンクリート片が残されている。
爆撃から何年も経っているのに。
だが、街はまだ、爆撃の翌朝のような顔をしているのだ。
穴の空いた建物には布が吊るされ、窓の代わりに板切れが打ちつけられている。壁には薄れたスローガンが残り、その上から子供の手で引っかいたような文字が重なっていた。パンを。薬を。神よ。
医師ハーリド・アル=ハサンは、その文字を見ないようにして歩いていた。
見れば、足が止まる。足が止まれば、声をかけられる。
声をかけられれば、鞄を見られる。
彼は白衣を着ていなかった。白衣など着て歩けば、自分が何を持っているかを街じゅうに触れ回るようなものだった。くたびれた灰色の上着を羽織り、頭には古びた布を巻き、手には黒い革鞄を抱えている。革鞄の留め金は錆び、角は擦り切れていたが、中身は今のバグダッドでは金塊より重かった。
乾燥した粉ミルクの小袋が三つ。輸液用のチューブが二本。
消毒液の瓶が一本。抗生物質のアンプルが、六本。
それだけだった。それだけで、今日、何人かの子供が夜まで生きられるかもしれなかった。
それだけで、今日、誰かの母親を死なせずに済むかもしれなかった。
そして、それだけのために、誰かがハーリドを殴り倒し、鞄を奪う理由には十分だった。
彼は足早に歩いた。だが、走らなかった。走れば目立つ。急ぎすぎれば、何かを持っていると悟られる。ゆっくり歩けば、弱く見える。その中間を、彼は何年もかけて覚えた。病院へ向かう医師の歩き方ではない。飢えた街を生き延びる者の歩き方だった。
隣を歩く男が、わずかに肩を寄せた。
「右だ」
低い声だった。ハーリドは返事をしなかった。ただ、ほんの少しだけ進路を変えた。
通りの向こう、崩れた薬局の前に、二人の兵士が立っていた。兵士、と呼ぶにはあまりに痩せている。軍服は色褪せ、肩章は片方だけ残り、靴紐は左右で違っていた。小銃は持っていない。だが、腰に下げた短い刃物と、その目つきだけで十分だった。
それは軍人ではない。国が飢えた後に残る、軍人の形をした飢えだった。彼らは通りを歩く人間を一人ずつ見ていた。金を持っていそうな者。食べ物を隠していそうな者。弱そうな者。泣きそうな者。抵抗できなさそうな者。
ハーリドは顔を伏せ、歩幅を変えずに通り過ぎた。
隣の男、アッバースは、崩れかけた壁側へ自然に身を寄せた。彼の右手は上着の内側に入っている。そこに銃があるわけではない。銃などあれば、とうに食料に替えている。だが、その仕草だけで、兵士たちは一瞬迷った。
迷った者は、生き残るために、より弱い獲物を探す。
ハーリドたちは、その一瞬の隙を通り抜けた。
角を曲がったところで、アッバースが短く息を吐いた。
「連中、今日は機嫌が悪そうだったな。先生」
「昨日よりはいいさ」
アッバースは左右に目を配りながら小声でつぶやいた。
「昨日は一人、路地で腹を裂かれていた」
「なら、今日はましになることを祈ろう」
返してから、ハーリドは自分の声が乾いていることに気づいた。
かつてなら、彼はそんな言葉を口にしなかっただろう。死体を比べて、昨日よりましになるなどと考えなかった。だが、この街では、死は量で測られるようになっていた。病院ではなおさらだった。
昨日は二十三人。
一昨日は十八人。
その前は三十一人。
爆弾で死んだ者ではない。銃で撃たれた者でもない。腹を満たせず、熱を下げられず、薬があれば助かった者たちだった。死因欄に、彼はいつも別々の言葉を書いた。
肺炎。脱水。敗血症。栄養失調。腎不全。
だが、書くたびに思う。嘘だ、と。
彼らを殺したのは肺炎ではない。肺炎なら、かつての病院にもあった。脱水も、敗血症も、栄養失調も、医師として見たことはある。貧しい患者も、弱い子供も、治せない病も、昔から存在していた。
だが、今の死は違った。
死が、回覧書のようにやって来る。港で止まり、倉庫で止まり、許可証で止まり、品目リストで止まり、会議室の机の上で止まる。そのたびに、薬は遠のき、発電機は沈黙し、浄水場は腐り、母親の乳は枯れていく。
そして最後に、病室の薄い毛布の下で、子供の胸が止まる。
ハーリドは唇を噛んだ。
噛み切って血の味がした。鉄の味だった。
「先生」
アッバースが言った。声に、わずかな警戒があった。
前方の路地から、三人の少年が出てきた。十歳から十五歳ほど。裸足の者もいる。手には何も持っていない。だが、その目は飢えた犬の目だった。彼らはハーリドの鞄を見た。次に、アッバースの顔を見た。
アッバースは、足を止めなかった。ただ、少年たちを見る目が変わった。
中年の男の目ではなかった。かつて軍にいた者の目だった。命令に従い、砂漠で行軍し、死体を見慣れ、それでも家に帰ってきた者の目だった。
少年たちは道を開けた。
そのうち一人が、かすれた声で言った。
「薬か」
ハーリドは立ち止まりかけた。アッバースの肘が、彼の腕に軽く触れた。止まるな、という合図だった。
「母さんが熱を出してるんだ」
少年の声は、怒りでも哀願でもなかった。ただ乾いていた。何度も頼み、何度も拒まれ、最後に言葉から感情が落ちた者の声だった。ハーリドは歩き続けた。
背中に視線が刺さった。彼は医師だった。
医師であるなら、振り返るべきだった。
だが、振り返れば、鞄を開けることになる。鞄を開ければ、他の者たちも集まってくる。六本のアンプルは六本でしかなく、六人を救うことさえ怪しい。それを路上で分ければ、病院で待っている二十人が死ぬ。
足を止めるな。
彼は自分に命じた。
足を、決して止めるな。
背後で、少年が何かを蹴った音がした。石か、空き缶か、あるいは何か別のものか。ハーリドは確かめなかった。市場だった場所に出ると、腐った野菜の匂いがした。
市場とは名ばかりだった。板の上に並んでいるのは、痩せたナツメヤシの実、虫のわいた小麦、色の悪い玉ねぎ、そして何かの肉だった。何の肉かは、誰も尋ねなかった。尋ねる余裕のある者は買わないし、買う者は尋ねる資格を捨てていた。
女が一人、両手に赤ん坊を抱えて座り込んでいた。
赤ん坊は泣いていなかった。泣く体力がないのだ。
女は通り過ぎる者の足元を見ていた。顔ではなく、足元を。立ち止まるか、立ち止まらないか。それだけを見ていた。
ハーリドは、また唇を噛んだ。血の味が強くなった。
「先生」
アッバースが、今度は少し柔らかく言った。
「病院まで、あと二つだ」
「ああ」
「着けば、少しはましだ」
ハーリドは答えなかった。病院に着いても、ましではない。
病院には、人の姿をした死が寝ている、それだけだ。
通りの先に、白かったはずの建物が見えた。壁は灰色に汚れ、窓の多くは板で塞がれ、屋上には水の入っていないタンクが傾いている。門の前には、患者と家族が影のように座り込んでいた。誰も騒がない。騒ぐ力がない。順番を争う者もいるにはいるが、すぐに咳き込み、地面に膝をつく。
病院の門をくぐった瞬間、ハーリドはようやく鞄を抱く手を緩めた。
その時だった。入口の柱の陰に、一人の男が立っていることに気づいた。
イラク人ではなかった。
小柄な男だった。だが、弱くは見えなかった。背は高くない。肩幅も、砂漠の男たちのように大きいわけではない。だが、そこに立っているだけで、柱の周囲の空気が硬くなっていた。肌は日に焼け、頬は削げ、目だけが異様に鋭かった。
軍服は着ていない。粗末なシャツと、砂埃をかぶった上着。だが、立ち方で分かった。かかとに重心を置かず、周囲の出口と死角を一度で測り、誰かが倒れても踏まない位置に立っている。
軍人だ。
それも、まだ軍人であることをやめていない男だ。男はハーリドの鞄を見なかった。
病院の入口に座る子供たちを見ていた。それから、顔を上げて、ハーリドを見た。
アッバースが半歩、前に出た。少なくともハーリドが病院に駆け込むまでは身を挺し、守るために。
男の目が、アッバースの動きを捉えた。ほんの一瞬だった。だが、その一瞬で、二人は互いに同じ種類のものを見た。
戦場を通った男の目だった。
その男、小柄なロシア人は、低い声で言った。
「医師か」
ハーリドは、乾いた喉で答えた。
「そうだ」
「何人死んでいる」
挨拶も、名乗りもなかった。
ハーリドは眉をひそめた。
「誰のことを言っている」
「今日だ」
男は、病院の奥へ視線を向けた。
「今日、この建物で、何人死んだ」
ハーリドは答えなかった。答えたくなかったのではない。
答えるには、まだ日が高すぎた。今日の死者は、まだ増える途中だった。




