第二部-17 自治
ドゥダノフの顔が苦渋に歪んだ。口元がへの字に曲がり、反論しようとして言葉を飲み込む。
ヴィクトルの指摘――ロシア軍の戦力と自分の足元の危うさ――は、彼が夜ごとうなされている悪夢そのものだったからだ。
「……将軍」
ヴィクトルは声をさらに和らげた。それは敵に対する威圧ではなく、崖っぷちに立たされた男に手を差し伸べるような奇妙な親密さを帯びていた。
「あなたは孤独だ」
「……なに?」
「あなたは世俗の軍人だ。本音では異教徒を殺せと叫ぶ髭面の狂信者たち(バサノフら)を嫌悪している。そして法と秩序を重んじてきたあなたが、列車強盗や麻薬密売の上がりで国家を運営しなければならない現状に吐き気を催しているはずだ」
ドゥダノフは何も答えなかった。だがその瞳から、ヴィクトルに対する敵意の膜が一枚剥がれ落ちたように見えた。
「彼らはあなたを引きずり降ろそうとしている。金が尽きれば彼らはあなたを食い殺すでしょう」
ヴィクトルは懐から一通の分厚い封筒を取り出し、ドゥダノフの目の前に置いた。
それは先ほどの要求書に対するロシア側の回答だった。
「助け船を出しましょう、ジョハル」
ヴィクトルは声を落とした。
「我々は独立だけは認めない。国境線は書き換えない。
だがそれ以外……あなたの『権力』と『命』を守るためのものは、すべてここにある」
ドゥダノフは封筒の中身を引き出した。
そこに記されていたのは法的な独立承認ではなく、実質的な統治権の委譲と想像を絶する巨額の資金援助の確約だった。
「パイプラインの通過料の30%を、チェチェン共和国政府……つまりあなたの口座に直接振り込む。
さらに国境警備隊および治安維持部隊の創設資金として、ロシア連邦予算から特別枠を設ける」
「……治安維持部隊、だと?」
「そうだ。名目はパイプラインの警備だ。だがその銃口をどこに向けるかは、あなたが決めることだ」
ヴィクトルの目は無言で告げていた。
『この金と武器を使って、あなたの敵――国内の過激派や政敵をあなた自身の手で粛清しろ』と。
「過激派を抑え込み国内をまとめ上げるための『力』を、我々が提供する。
ロシア軍は介入しない。これは『チェチェンの国内問題』だ。あなたが、あなたの手で秩序を作るなら、我々は金と武器を惜しまない」
それは取引だった。ロシアからの独立を叫ぶドゥダノフに対し、ヴィクトルは「ロシアの金でチェチェンの王になれ」と唆しているのだ。理念を捨てて実利を取れ。山賊として死ぬか、敵対者を排除して生き残るか。
「……私がこの提案を蹴れば?」
ドゥダノフは乾いた声で聞いた。
「その時は残念ながら交渉決裂です」
ヴィクトルは背後に控える屈強な男たちに視線を流した。
「我々は別の交渉相手を探すことになります。例えばあなたの政敵である暫定評議会の連中か……あるいはグロズヌイを焦土に変えた後に、瓦礫の中から適当な男を見繕うか」
ドゥダノフは長い時間、契約書を見つめていた。ペンを持つ手がかすかに震えている。
ここにサインすれば彼は「独立の父」という夢を捨て、モスクワの鎖に繋がれた「番犬」となる。
だがその鎖は黄金でできており、彼と彼の家族、そして彼に従う氏族の繁栄を約束している。
「……金払いはいいんだろうな」
ドゥダノフは絞り出すように言った。
「ロシアは今、復興景気だ。約束は守る」
ドゥダノフは懐から愛用の万年筆を取り出した。そしてまるで魂を売り渡すかのように、重々しくサインを記した。
「いいだろう、ペトロフ副長官。パイプラインは守ってやる。狂犬どもは私が躾ける。……だが忘れるな。金が止まれば、私はいつでもお前たちの喉笛を食いちぎるぞ」
「肝に銘じます」
ヴィクトルは契約書を回収した。握手はなかった。だがこの瞬間、カフカースという火薬庫の信管は抜かれ、代わりに大量の黄金が詰め込まれた。チェチェン紛争という未来の地獄は回避され、ロシアは血を流すことなく南の国境の「蓋」を閉じることに成功したのだ。
いくらかの説明の後、部屋を出るヴィクトルの背中にドゥダノフの複雑な視線が突き刺さる。それは敵に対する憎悪と、同じ"実利"の世界に生きる共犯者への奇妙な共感が混じり合った目だった。
廊下に出るとチェルノフが半歩遅れてついてきた。彼は交渉の一部始終を一言も発さずに見つめていた。
「……閣下」
しばらく歩いてからチェルノフが口を開いた。
「あの男の手が震えていました」
「ああ」
「……我々が彼にしたことは、救済ですか。それとも――」
チェルノフはその先を言わなかった。だがヴィクトルには分かっていた。この若い腹心が飲み込んだ言葉の重さが。
「どちらでもある。そしてどちらでもない」
ヴィクトルは振り返らずに歩き続けた。
「フョードル。交渉とは相手に『自分で選んだ』と思わせる技術だ。彼は自分の意志でサインした。我々が強制したのではない。……そう彼自身が信じている限り、あの契約は生きる」
カフカースの春風が空港の廊下を吹き抜けた。チェルノフはヴィクトルの背中を見つめながら、先ほどの問いの答えをまだ探していた。
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