第二部-16 軍閥
ミネラリヌイエ・ヴォディ空港、政府要人待合室。
窓の外にはカフカースの山々が青く霞んでいた。
ヴィクトルは革張りのソファに深く座り、グラスの中のミネラルウォーターを揺らしていた。
部屋の四隅とドアの前には、仕立ての良いスーツを着た屈強な男たちが彫像のように立っている。
連邦警護庁(FSO)に出向中のGRU所属スペツナズ。ヤトフ元帥直系の手練れたちだ。彼らの目は来訪者を決して信用していない。
「……来ました」
チェルノフが短く告げると同時にドアが開いた。風のような男が入ってきた。
ジョハル・ドゥダノフ。元ソビエト空軍少将にして、自称「チェチェン・イチケリア共和国」初代大統領。野戦服にベレー帽、腰には拳銃のホルスター。その姿は国家元首というよりは、戦場の指揮官そのものだった。
彼の背後には髭を蓄え、カラシニコフを肩から下げた護衛たちが続こうとしたが、FSOの男たちが無言で立ちはだかり制した。
「ここから先は代表者のみだ」
一触即発の空気が流れる。ドゥダノフは鼻を鳴らし、部下を手で制して一人で部屋に入ってきた。
彼はヴィクトルの向かいの席にどかりと座り込んだ。その瞳は獲物を探す狼のように鋭く、そして飢えていた。
「よく来たな、モスクワの集金人」
ドゥダノフはヴィクトルを挑発するように言った。
「噂は聞いているぞ、ペトロフ副長官。お前たちが西側から巻き上げた金でモスクワに新しいビルを建て、道路を直しているとな」
その言葉には隠しきれない苛立ちと嫉妬が滲んでいた。
1991年の独立宣言以降、チェチェンは「自由」を手に入れたはずだった。だが現実はどうだ。経済は崩壊し、給与は支払われず、街は荒廃している。
一方で「崩壊する」と言われていたロシアは、ヴィクトルの手腕によって持ち直し、今や復興の槌音が響いている。隣の巨人が再び立ち上がり始めたことへの恐怖。それがこの猛禽のような男を交渉のテーブルにつかせたのだ。
「ロシアは再建の途中です、将軍」
ヴィクトルは相手の挑発に乗らず、淡々と返した。
「そしてあなた方の共和国もまた、再建が必要なのでしょう? だからこそ今日ここに来られた」
「言葉を飾るな」
ドゥダノフはテーブルを拳で叩いた。
「我々は独立国家だ。だがお前たちは経済封鎖で我々を締め上げている。年金もインフラの維持費も、モスクワからの送金が止まれば我々の民は干上がる。それを知っていてお前たちは蛇口を締めた」
彼は懐から一枚の汚れた紙を取り出した。それは彼らが用意してきた「要求書」だった。
「我々がロシアと手を結ぶ条件だ。よく聞け」
ドゥダノフはヴィクトルの目を見据え、その法外な要求を読み上げ始めた。
「第一にチェチェン・イチケリア共和国の『完全な主権』の承認。連邦構成主体ではなく対等な国家としての外交関係の樹立」
ヴィクトルは表情を変えない。それは想定内のジャブだ。
「第二に賠償金だ。スターリンによる1944年の強制移住、そしてソ連時代の搾取に対する補償として、金塊またはハードカレンシーによる即時100億ドルの支払い」
チェルノフが呆れたように眉をひそめた。ロシアの国家予算すら揺るがす金額だ。
「第三に……」
ドゥダノフの声に実利への執着が混じった。
「バクー・ノヴォロシースク・パイプラインの、チェチェン領内通過区間の管理権の完全譲渡。通過料はロシア側が決定するのではなく、国際相場に基づき我々が決定し、全額をチェチェン政府が徴収する」
さらに彼は続けた。
「第四にグロズヌイにある石油精製施設の近代化費用をロシアが全額負担すること。精製された製品の販売権はチェチェンが持つ」
それはあまりにも虫のいい話だった。独立を認めろ、金はよこせ、パイプラインというロシアの生命線の蛇口は自分たちが握る、設備投資はお前たちがやれ。
この世界の力関係――復活しつつある強力なロシア軍と孤立無援のチェチェン――を無視した、敗戦国に対する戦勝国のような要求。
だがヴィクトルは理解していた。これは強気なのではない。悲鳴なのだ。
これだけの条件を引き出さなければ、ドゥダノフは国内の過激派や飢えた国民を抑えきれないところまで追い詰められている。彼は虚勢という鎧を着て、破れかぶれの突撃を仕掛けてきているのだ。
「……以上だ」
ドゥダノフは紙をテーブルに投げ出した。
「飲めるか? それとも我々と戦争をするか?言っておくが我々の兵士はアフガンの山で鍛えられた猛者だ。ロシアの徴集兵ごときに遅れは取らんぞ」
ヴィクトルは投げ出された紙を手に取ろうともしなかった。彼はミネラルウォーターを一口飲み、ドゥダノフをまるで駄々をこねる子供を見る教師のような目で見つめた。
「将軍。……いや、ジョハル・ムサエヴィチ」
ヴィクトルはあえて親しげに彼の名前を呼んだ。
「あなたは優れた軍人だ。戦力比の計算ができない男ではないはずだ」
ヴィクトルはまだ懐の「黄金の鎖」――妥協案という名の契約書――を取り出さない。まずは相手に現実を突きつけ、その高い鼻をへし折る必要がある。
「その紙に書かれた夢物語が今のロシアに通じると思っているのですか?我々は弱体化した政府ではない。ヤトフ元帥の戦車師団が、その気になれば何時間でグロズヌイを更地にできるか……あなたなら分かっているはずだ」
ヴィクトルの背後でスペツナズの護衛が、無言のまま威圧感を放つ。交渉はまだ始まったばかりだった。
ドゥダノフは口を曲げるが、その言葉自体は否定しない。ソ連軍崩れの軍閥、強盗団、山に潜むイスラム過激派——彼の手元の「兵力」は誰一人として彼を好いてなどいない。あくまで分裂したチェチェンが暫定的にまとまるためのシンボルとして、この元将軍を担いでいるだけだ。
だからこその強硬な要求だった。少しでも弱みを見せれば背後から引きずり降ろされる。ドゥダノフが最も恐れているのは目の前のロシア人ではなく、自分の背中を睨んでいる味方たちだった。
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