第二部-15 黄金の鎖
第14話で、都市を5時間制圧と2時間制圧が混じってて失礼しました(._.)。5時間で統一しました
(ちなみに史実では2時間で制圧できると慢心して地獄のチェチェン制圧が始まります)。
1994年春、ロシア政府専用機Tu-134の機内。
ジェットエンジンの単調な唸り音だけが響くキャビンで、ヴィクトルは窓の外に広がる雲海を見つめていた。手元のテーブルにはこれからカフカースの猛禽、ジョハル・ドゥダノフに突きつけるための契約書案が置かれている。
それはロシアの主権を切り売りし、国境の内側に「異国」を作ることを認める妥協の産物だった。
「……不本意という顔をされていますね」
向かいの席で書類を整理していたフョードル・チェルノフが、手を止めて言った。
彼だけがヴィクトルの鉄面皮の下にある微かな感情のさざ波を読み取ることができた。
「分かるか、フョードル」
ヴィクトルは視線を雲から外し、苦笑した。ファーストネームで呼ぶのはいつからの習慣だったか。たぶん93年、この男が徹夜明けのデスクにブラックコーヒーを黙って置くようになった頃からだ。
「ああ、不本意だ。私の仕事はこの国を一つに繋ぎ止めることだ。だが今からやろうとしていることは金で平和を買い、領土の中に腫瘍を飼い続けることに他ならない」
「ですが閣下はただ譲歩するためだけにあの契約書を作ったわけではない。……違いますか?」
チェルノフはヴィクトルのグラスに水を注ぎながら、試すように問うた。彼は知っている。この男がただ無策に膝を屈することなどあり得ないことを。この契約書の行間には必ず将来への「毒」か、あるいは「種」が仕込まれているはずだ。
ヴィクトルは水を一口飲み、チェルノフを見た。
「ナショナリズムとは熱病だ」
教壇に立つ講師のような口調だった。だがその眼差しには、講師が優等生に向ける期待の色があった。
「熱は人を動かす。独立を叫び銃を取らせ、死をも恐れなくさせる。今のドゥダノフとチェチェン人はその熱の中にいる。だがな、フョードル。ナショナリズムは熱は生むが、パンは生まない」
彼は契約書案を指で弾いた。
「我々が彼らに与えるのは自由ではない。『金』だ。パイプラインの通過料という莫大な、そして汗をかかずに手に入る安易な金だ」
「金は熱を冷ますと?」
「ああ。金は生活を生み、欲望を生み、そして腐敗を生む」
ヴィクトルの瞳に感傷を排した計算の光が灯る。
「想像してみろ。ロシアの金でグロズヌイが潤い、ビルが建ち、指導者たちが高級車を乗り回すようになった社会を。人々は豊かさに慣れ世俗化し、そして『独立』という食えない理念よりも明日の商売や生活の安定を望むようになる」
経済的な繁栄は過激な思想を中和する解毒剤になる。ドゥダノフがロシアの金で王国を築けば築くほど、彼はその「金脈」なしでは生きられない体になる。
「それがこの契約書に埋め込んだ『種』ですか」
「そうだ。10年、あるいは20年かかるかもしれん」
ヴィクトルは遠い目をした。
「彼らが安定し、経済的にロシアに依存しきった時……その時こそ我々はこの『黄金の鎖』をゆっくりと手繰り寄せ、音もなく彼らを連邦の枠組みへと回収する」
「ですが」
チェルノフはもう一つの可能性を指摘した。
「金が毒に回り、彼らが腐敗しきって統制を失う可能性もあります。ドゥダノフが御しきれず、国が荒れ果ててマフィアの巣窟になれば……」
「それもまた良しだ」
ヴィクトルは即答した。
「もし彼らが自浄能力を失い破綻国家となれば、市民は絶望するだろう。その時、彼らは思い出す。『連邦に管理されていた時代の方が少なくとも安全だった』と」
彼は容赦なく断じた。
「その時こそ我々は『平和維持軍』として堂々と国境を越える。抑圧者としてではなく、秩序を回復する執行者としてな。そうすれば住民は我々を敵対せずに迎える可能性が高い。少なくとも今すぐいくよりは、な」
安定して取り込まれるか。荒れ果てて泣きついてくるか。どちらに転んでも最後にはロシアが勝つ。
そのための長い長い時間の猶予を今、金で買うのだ。
「……気が遠くなるような話ですね」
チェルノフはため息交じりに笑った。だがその後、彼はしばらく黙り込み、窓の外のカフカースの山並みを見つめていた。やがて口を開いた。
「閣下。一つだけよろしいですか」
「何だ」
「その『黄金の鎖』は……どこまで伸ばせるのでしょうか」
ヴィクトルは眉を上げた。想定外の問いだった。
「チェチェンに効くなら他にも効くはずです。タタールスタン、バシコルトスタン、サハ……連邦内の全ての不満分子に同じ鎖を繋げるのですか。それとも鎖が増えすぎれば、今度は我々の方が重みで動けなくなる?」
沈黙が落ちた。エンジンの唸りだけが数秒間キャビンに響いた。
ヴィクトルは目の前の男を改めて見た。いつからこの男は従う以外の言葉を発するようになったのか。水を注ぐだけでなく、杯の中身を疑うようになったのか。
「……いい問いだ、フョードル」
ヴィクトルは自分でも驚くほど穏やかな声で言った。
「その答えはまだ私にもない。だがその問いを持っている人間は、少なくとも間違った答えには辿り着かない」
チェルノフは一瞬、戸惑ったように瞬きをした。ヴィクトルに褒められた経験がほとんどなかったからだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。その問いの答えを君自身で見つけろ。それが宿題だ」
ヴィクトルはシートベルト着用のサインが点灯したのを見て、姿勢を正した。
「行くぞ。カフカースの連中に礼節を思い出させてやろう」
機体が高度を下げる。窓の下には荒々しくも美しいカフカースの山脈が、雪を頂いて連なっていた。
その峰々の間にヴィクトルは目に見えない網を、確実に、そして気の遠くなるほどゆっくりと広げようとしていた。
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