第二部-14 チェチェン独立運動
1994年、春。モスクワ、クレムリン。安全保障会議室。
重厚なカーテンが閉ざされた部屋には、紫煙と、安物ではないコーヒーの香りが漂っていた。
円卓を囲んでいるのは、エリツォン大統領、ヤトフ元帥、アレクサンドロフ、そして治安機関FSK(連邦防諜庁)や内務省のトップたち。
そして、その末席から全体を観察しているヴィクトル・ペトロフ。
議題は一つ。ロシア連邦の南の腹部に刺さった棘、チェチェン共和国(イチケリア・チェチェン共和国)についてだ。
「これ以上の放置は、連邦の権威に関わります」
口火を切ったのは、内務大臣だった。彼は苛立ちを隠そうともせず、テーブル上の地図を叩いた。
「ジョハル・ドゥダノフは完全に増長している。1991年に一方的に独立を宣言して以来、あそこは法治の空白地帯だ。列車強盗、身代金目的の誘拐、そして我々のパイプラインからの原油の抜き取り……。もはや国家ではない。武装した犯罪シンジケートだ」
出席者たちが頷く。これは事実だった。現在のチェチェンは独立の熱狂から覚め、経済的に破綻し、マフィアと軍閥が支配する「強盗国家」の様相を呈していた。
「さらに」
FSK長官が、陰鬱な声で報告を引き継いだ。
「ドゥダノフの足元も揺らいでいます。彼の世俗的な統治に不満を持つ、中東帰りのイスラム原理主義勢力――シャミル・バサノフやハッタルブといった連中が、山間部で勢力を拡大している。彼らがドゥダノフを排除し、チェチェンを完全なイスラム首長国にすれば、飛び火はダゲスタンやイングーシにも及ぶでしょう」
「だからこそ、今叩くべきなのです!」
内務大臣が声を張り上げた。
「ドゥダノフ軍など、正規軍の敵ではありません。所詮は、地方軍のお下がりで武装した民兵集団だ。
ヤトフ元帥の精鋭戦車師団と、空挺部隊を投入すれば……2個連隊があれば、5時間でグロズヌイを制圧できるはずです!」
その言葉は、この会議室の空気を象徴していた。湾岸での反抗作戦以来の自信、そして経済の持ち直し。それらがもたらした余裕が、一部の閣僚たちを「力による解決」へと誘惑していたのだ。
エリツォンもまた、腕を組み、満更でもない表情でその勇ましい言葉を聞いている。彼は「強い指導者」としての自分を好んでいた。
だがその楽観論を、遮る声があった。
「……5時間で制圧して、その後はどうするおつもりですか」
ヴィクトルだった。
彼は手元の資料から顔を上げず、淡々と問いかけた。
「ペトロフ副長官、どういう意味だ?」
「言葉通りの意味です。内務大臣」
ヴィクトルは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、戦場の熱気など微塵もない。
「ドゥダノフを殺し、グロズヌイにロシア国旗を立てる。それは軍事的には可能でしょう。ヤトフ元帥の軍は精強ですから。ですが、その後です。山岳地帯に逃げ込んだ残党によるゲリラ戦。絶え間ないテロ。破壊されたインフラの復旧費用。そして何より……」
ヴィクトルは、地図上の赤いラインを指でなぞった。
カスピ海沿岸のバクーから、チェチェンを通り、黒海のノヴォロシースク港へと続く大動脈。
「戦闘が始まれば、この石油パイプラインは確実に止まる。あるいは破壊される。
我々が今、喉から手が出るほど欲している外貨の蛇口が、数年単位で閉まることになる。
その経済的損失と、占領統治にかかる莫大なコスト。それらを天秤にかけた上で、なお『5時間で終わる』とおっしゃるのですか?」
会議室が静まり返った。「金」の話をされては、勇ましい精神論も形無しだ。
ヴィクトルは続けた。
「それに、皆様は誤解されている。
ジョハル・ドゥダノフという男は、狂信的なイスラム戦士ではありません。彼は、我々と同じソビエト連邦で教育を受け、少将にまで登り詰めた男だ。愛国戦争の英雄として勲章を胸に下げていた、世俗のエリート軍人です」
ヴィクトルは、ドゥダノフの人物分析ファイルを広げた。エストニア駐留時代、バルトの独立運動に理解を示し、デモ隊への発砲を拒否した理知的な将軍。彼が独立に走ったのは、ソ連崩壊の混乱の中で、民族の誇りと野心が化学反応を起こした結果だ。だが、その根底にあるのは「計算ができる軍人」としての理性だ。
「彼は、話が通じる相手です。少なくとも、山に潜む狂犬たちよりは」
「……では、どうしろと言うんだ、ヴィクトル」
エリツォンが、渋い顔で尋ねた。
「あの『強盗』に麦粥を恵んでやり、頭を下げろと言うのか?」
「いいえ。ビジネスをするのです」
ヴィクトルは断言した。
「彼が欲しいのは『面子』と『金』です。我々が欲しいのは『国境線の維持』と『パイプラインの安全』です。利害は一致させられる」
ヴィクトルは、ヤトフ元帥に視線を送った。
これまで沈黙を守っていた軍の最高実力者が、重々しく口を開いた。
「……私も、ペトロフ副長官に同意する」
元帥の一言に、内務大臣が息を呑んだ。
「市街地戦は泥沼だ。たとえ勝っても、流れる血が多すぎる。
それに……我々の軍は今、再建の途中だ。無益な内戦で、貴重な精鋭と予算を消耗したくはない」
ヤトフは、本当の戦争の恐ろしさを知っている。だからこそ、安易な開戦論には乗らない。
ヴィクトルは、決定的な提案を行った。
「ドゥダノフを、我々の『番犬』にするのです。
彼に金と権限を与え、チェチェン国内を統治させる。過激派を抑え込ませ、パイプラインを守らせる。
形式上はロシアの一部だが、実態はドゥダノフの王国。……それでいいではありませんか」
「……」
エリツォンは、しばらく天井を仰いでいた。「強いロシア」を見せたい欲求と、「賢いロシア」でありたい理性がせめぎ合う。やがて、彼は大きなため息をついた。
「……金で済むなら、安いものか」
大統領は、ヴィクトルを見た。
「行ってこい、ヴィクトル。その『強盗団の親分』とやらと、話をつけてこい。
ただし、舐められるなよ。譲れない線は譲るな」
「承知いたしました」
ヴィクトルは短く一礼した。泥沼の戦争という未来の地獄を回避し、金と契約書で平和を買う。
それは、英雄的な行為ではないかもしれない。だが、最も実利的な解決策だった。
彼は書類をカバンにしまい、カフカースへと飛ぶ準備を始めた。
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