第二部-13 家族
1994年、晩冬。モスクワ、大統領府第一副長官室。深夜。
執務室の時計は午前2時を回っていた。 ヴィクトルは、チェチェン共和国に関する不穏な報告書――独立派の武装蜂起の兆候――を読み終え、こめかみを揉んだ。 ヤトフ元帥は「潰すなら早い方がいい、ただし慎重に」と言う。アレクサンドロフは「戦費が予算を圧迫する」と渋る。 決断の重圧が、鉛のように肩にのしかかる。
ふと、彼は受話器に手を伸ばした。 クレムリンの盗聴防止回線ではない。ごく普通の、外線電話だ。 ダイヤルを回す。市外局番は、ウラルのエカテリンブルク(旧スヴェルドロフスク)。 時差は2時間。向こうは早朝の4時だ。迷惑な時間だが、兄なら起きているはずだ。工場の朝は早い。
数回のコールの後、ガチャリと重い音がして、受話器が取られた。
「……もしもし」
低く、太い声。寝起きではない。すでに覚醒し、朝の茶を飲んでいる時の声だ。
「兄さんか。……私だ」
「ヴィクトルか」
兄、ユーリの声のトーンが、わずかに和らぐ。驚きも、非難もない。ただ、弟からの電話を当然のように受け入れる、変わらぬ兄の声。
「こんな時間に、どうした。モスクワで困ったことでもあったのか?」
「いや、大丈夫。そうなる前に対応してるところだから」
ヴィクトルは、革張りの椅子に深く背を預けた。
「そっちはどう。寒さは」
「マイナス20度だ。例年通りさ」
ライターをする音が聞こえ、ふぅー、と煙を吐き出す音が続く。その音だけで、ヴィクトルの脳裏に、実家の狭いが暖かい台所の情景が鮮明に浮かび上がった。
「……工場は、動いている?」
ヴィクトルは、恐る恐る聞いた。 彼が進める「構造改革」と「淘汰」。それが故郷をどう変えているか、報告書では分からない真実が怖かった。
「ああ。動いているぞ」
ユーリはあっけらかんと答えた。
「先月、新しい機械が入った。お前がオボロネクスポルトの中央工廠からふんだくってきたという、ヘンテコな制御盤がついた旋盤だ。……最初は誰も使い方が分からなくて往生したがね。若い連中がマニュアルと格闘して、ようやく動かし始めた」
「そうか……」
「それとな、ヴィクトル」
ユーリの声に、かすかな熱がこもった。
「新しいトラックだ。あれはいい。エンジンの吹き上がりが違う。 現場の連中は言ってるよ。『ようやく、まともな道具が回ってきた』とな。 給料はまだ遅れがちだが、作るものがあるなら、俺たちは待てる」
ヴィクトルの胸の奥で、張り詰めていた何かが解けていくのを感じた。 届いている。 クレムリンで描いた図面が、泥と油にまみれた現場に、確かに届いている。
「……そうか。よかった」
「ヴィクトル」
不意に、兄が名を呼んだ。
「お前、ちゃんと食ってるか」
その唐突で、あまりにも素朴な問いかけに、ヴィクトルは目頭が熱くなるのを覚えた。 国家の存亡、数億ドルの契約、戦争の危機。そんな重圧の中にいる弟に対し、兄がかけた言葉は、ただの生活の心配だった。
「……ああ。食ってるよ。食堂の飯は悪くない」
「そうか。ならいい」
ユーリは短く言った。
「無理をするなとは言わん。お前は、俺たちが想像もつかないような大きな機械を修理してるんだろうからな。 だが、忘れるな。疲れたら、帰ってくればいい。 お前がどれだけ偉くなろうと、世界中から嫌われようと、俺の弟であることに変わりはない。 ここには、お前の席と、ウォッカと、黒パンがある」
「……ありがとう、兄さん」
「ああ。……そろそろ行く時間だ。シフト長なんでな」
ガチャン。 通話が切れた。 ツーツーという電子音だけが残る。
ヴィクトルは、しばらく受話器を耳に当てたまま、動けなかった。 耳の奥に、兄の低い声と、ウラルの冬の匂いが残っていた。
「……やるか」
彼は受話器を置き、チェチェンの報告書を引き寄せた。 迷いは消えていた。 あの兄のような男たちが、明日も工場で誇りを持って働ける国。 それを守るためなら、自分はどんな泥でも被れる。
ヴィクトルはペンを取り、決裁欄に力強くサインを書き込んだ。 窓の外では、モスクワの夜明けが、薄墨色に空を染め始めていた。
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