第二部-12 居場所
トマスの表情が凍りついた。彼は、信じられないものを見る目でアルドナを睨んだ。
「正気か? 君は私に、リトアニアの外交官として得た機密を、ロシア政府に流せと言うのか」
彼は声を荒げそうになるのを必死で堪え、テーブルを指で叩いた。
「私はリトアニア共和国の代表だ。ヴィクトル・ペトロフのスパイをする義理はない。断る」
「義理はないわね。でも、損得はあるはずよ」
アルドナは動じなかった。彼女は感情に訴えることはしない。トマスが優秀な外交官であることを知っているからこそ、苛烈な地政学の刃を突きつける。
「考えてみて。あなたたちがロシアに求めている『ヴィリニュス事件の賠償金』……あれを払えるだけの体力が、今のロシアにあると思う?」
「……」
「ロシアが北極海の開発に成功し、スタトイルの技術でガスを掘り出して経済的に立ち直れば、賠償金が現金で支払われる可能性が出てくる。エネルギー価格だって安定するわ」
彼女は、身を乗り出した。
「逆に、この開発が失敗して、ロシアが経済的に追い詰められて暴発すれば、最初に踏み潰されるのは誰? 孤立したリトアニアよ。
ロシアを『話の通じる金持ちの隣人』にしておくこと。それが、今のリトアニアにとって、NATO加盟よりも確実な安全保障でしょう?」
それは、痛いところを突いていた。だが、否定しがたい真実でもあった。
トマスは苦々しげに顔を歪め、グラスに残ったワインを一気に干した。
リトアニア政府内でも、本音では「ロシアとの関係改善」を望む声は多い。だが、世論がそれを許さない。だからこそ、裏のチャンネルが必要なのだ。
「……君は」
トマスは、ため息交じりに言った。
「相変わらず、残酷なまでに正しいな。……昔からそうだった」
彼は記憶していた情報を、早口で囁いた。証拠を残す愚は犯さない、民間運動家からのし上がった男の用心深さだった。
「……オスロ(ノルウェー)は、ブリュッセルで孤立しかけている。彼らはロシアとの直接対決を恐れているんだ。漁業権と大陸棚の問題で、実はアメリカの強硬姿勢にうんざりしていて、ロシアとの妥協点を探りたがっている」
「具体的な動きは?」
「スタトイル社の幹部と、ノルウェー外務省の特使が、来年春、極秘にヘルシンキへ飛ぶという情報がある。表向きは環境会議への出席だが……接触するなら、そこだ」
アルドナは、その情報を脳裏に刻み込んだ。
十分だ。ヴィクトルが求めていた「獲物の居場所」は、そこにある。
「……行くよ。長居は危険だ」
トマスは立ち上がり、コートを羽織った。
去り際に、彼は一度だけ振り返り、寂しげにポツリと言った。
「いつか……君が胸を張って帰れる日が来るといいんだが」
アルドナは、寂しげに笑い、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。私が『悪役』でいる限り、あなたたちは『被害者』として清潔でいられる。……それでいいの」
トマスは、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、逃げるように店を出て行った。
カラン、とドアベルが鳴る。
冷たい風と共に、かつての同志が去っていく。
アルドナは、その背中に向かって、唇を動かした。
ごめんなさい。
あるいは、ありがとう。
だが、その言葉は声にはならず、喉の奥で形を失って消えた。
今の自分には、その言葉を口にする資格さえ、もう残されていない気がしたからだ。
彼女は冷めたハーブティーを一口だけ飲み、会計を済ませて店を出た。
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夜。モスクワ、大統領府。
アルドナが戻ったとき、廊下はしんと静まり返っていた。警備兵の靴音だけが、遠くで響いている。
彼女は、大統領府第一副長官室の重厚なドアを、ノックもせずにそっと開けた。
部屋の中は薄暗く、デスク上のグリーンのシェードランプだけが灯っていた。
その明かりの下で、ヴィクトル・ペトロフは、山のような書類に埋もれていた。
「……高いな。高すぎる」
彼は、誰に言うでもなく、低い唸り声を上げていた。
手元にあるのは、バレンツ海の海底パイプライン敷設にかかる概算見積もりだろうか。あるいは、自動車工場の設備投資額か。
彼は眉間に深い皺を刻み、ペンを指で回しながら、天井を仰いだり、また書類に顔を埋めたりしている。
アルドナは、ドアに寄りかかり、その様子をしばらく眺めていた。
国を動かす非情な実力者。西側を震え上がらせるマキャベリスト。
だが、今の彼は、家計簿を見ながら頭を抱える平凡な父親のように、人間臭く、そしてどこか滑稽でさえあった。
(本当に……)
彼女の胸の中にあった、トマスとの別れによる寂寥感が、少しずつ薄れていくのを感じた。
ここには、栄光も、清潔な正義もない。
あるのは、泥にまみれた計算と、終わりのない苦悩だけ。
だが、この男は逃げない。自分が背負った国の重さから、一歩も逃げようとしない。
その不器用な背中を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
ここは冷たい牢獄ではない。
凍える夜に、必死で火を守る番人の小屋だ。そして自分は、その番人と共に火をくべることを選んだのだ。
アルドナの口元が、自然と緩んだ。
彼女は、愛おしいような、呆れたような、小さなため息を一つついて、部屋の中へと歩き出した。
「戻りました、閣下」
ヴィクトルが、驚いたように顔を上げた。
その疲れた顔を見て、アルドナはもう一度、小さく微笑んだ。
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