第二部-11 同志
1993年、冬。モスクワ、アルバート通り。
観光客で賑わう表通りから一本入った路地裏に、看板の塗装が剥げかけた古びたジョージア料理店があった。
店内は薄暗く、スパイスと羊肉を焼く煙の匂いが充満している。壁には色褪せたトビリシの風景画。客たちは皆、声を潜めてウォッカを煽っており、誰も他人の顔など見ていない。
大使館の盗聴やFSKの視線を避けるには、こうした雑多な場所が最も安全だった。
店の奥、厨房に近い一番目立たない席に、アルドナ・カヴァラウスカイトは座っていた。
大きめのセーターに身を包み、湯気の立つハーブティーを両手で包んでいるその姿は、モスクワ大学の女子学生が休日に息抜きをしているようにしか見えない。
カラン、とドアベルが鳴る。
入ってきたのは、神経質そうな痩せた男だった。襟を立て、周囲を警戒するように視線を走らせる。
トマス・ヴァイチュナス。リトアニア共和国・駐ロシア臨時代理大使。
そして、かつてヴィリニュスの広場で、アルドナと共に「独立」を叫んだ、大学時代の先輩であり同志だった男。
トマスは、アルドナを見つけると、一瞬だけ表情を強張らせ、すぐに平静を装って彼女の向かいの席に滑り込んだ。
「……久しぶりだな、アルドナ」
彼の声は低く、硬かった。
リトアニア外交官が、公式には「国賊」として追放された元同胞と密会する。それが露見すれば、彼の政治生命は即座に終わる。
「ええ、トマス。少し痩せたかしら?」
アルドナは穏やかに微笑んだ。かつて革命の熱気の中で見せた厳しい表情はそこにはない。
「モスクワの冬は、外交官には厳しすぎるからな」
トマスは皮肉っぽく笑い、店員にワインを注文した。そして、店員が去るのを待って、身を乗り出した。
「君は……変わらないな。相変わらず、学生のように見える」
「中身はもう、すっかり擦り切れたおばあちゃんよ」
アルドナは自嘲した。
法的な保護を持たない「ソ連国籍」の亡命者。その不安定な身分が、彼女の纏う空気をどこか浮世離れしたものにしているのかもしれない。
ワインが運ばれてくると、トマスはグラスを回しながら、ポツリと言った。
「ヴィリニュスの雪は、まだ白いよ。君がいた頃と変わらずにね」
それは、暗号めいた現状報告だった。
ロシアからのエネルギー供給は止まっていない。暖房は稼働し、パン屋にはパンがある。街は平穏だ、という報告。
「……そう。よかった」
アルドナは、心底安堵したように息を吐いた。彼女が汚名を被ってまで守りたかったものが、そこにはあった。
「だが」
トマスの声が沈む。
「リガ(ラトビア)とタリン(エストニア)の雪は、きっと煤で黒く汚れているだろうな」
アルドナの表情が曇る。
ラトビアとエストニア。彼らはアルドナの「裏切り」を拒絶し、ロシアに対して強硬な即時独立と賠償請求を貫いた。
その結果、ヴィクトル・ペトロフによる容赦のない経済締め付け――エネルギー価格の国際相場適用と供給制限――を受け、経済は事実上の破綻状態に陥っている。
ハイパーインフレで市民生活は崩壊し、凍える部屋で薪を燃やして暖を取る生活。
人道介入を名目に人員派遣を画策したフィンランドとスウェーデンの行動も、ソ連が"まだ解体されていない"ことから手詰まりに陥っている。
独立国家共同体準備委員会側は【内政介入】として、強力に撥ねつけている状態だった。
それをトマスは指摘しているのだ。
「バルトの結束は死んだよ、アルドナ。君が殺したんだ」
トマスの言葉は鋭利なナイフのようだったが、そこには非難よりも、どうしようもない現実への諦念が滲んでいた。
「おかげで、我々リトアニアの子供たちは、隣人が凍えているのを横目に、暖房の効いた部屋で眠れている。……皮肉なものだ。我々は君を『売国奴』と罵りながら、君がロシアから引き出したガスで暖を取っている」
彼はワインを一気に飲み干した。その味は、きっと苦いだろうとアルドナは思った。
「……恨んでいる?」
「誰をだ? 君をか? それとも、隣人を見捨てて自分たちだけ生き残った我々自身をか?」
トマスは首を振った。
「感情論はよそう。私は外交官だ。結果だけを見る」
彼は、アルドナを真っ直ぐに見つめた。
「それで、君はどうなんだ。クレムリンの……あの『ヴィクトル・ペトロフ』という男の飼い犬になった気分は」
その言葉には、明確な棘があった。
冷酷なマキャベリストとして知られるロシアの実力者。その懐刀として働くかつての同志への、複雑な感情。
「冷たい檻の中で、首輪をつけられて震えているのか?」
トマスの問いに、アルドナはきょとんとして、それからクスリと笑った。
「いいえ、全然」
彼女は、マグカップの温もりを感じながら、淡々と答えた。
「あの人は……ペトロフ副長官は、あなたが思っているような冷血漢ではないわ」
「ほう? バルト三国を経済的に絞め殺している男が、温かい人物だと?」
「温かくはないわ。でも、冷たくもない」
アルドナは、クレムリンの執務室で、山積みの書類と格闘するヴィクトルの背中を思い浮かべた。
そこにあるのは、権力欲でも支配欲でもない。ただ、この巨大で軋む国家を、どうにかして破綻させずに明日へ繋ごうとする、実直すぎるほどの責任感だ。
「あの場所は、冷たい牢獄じゃないわ。むしろ、凍える吹雪の中で、必死に焚き火を守ろうとしている番小屋みたいなものよ。
……私は、その火が消えないように薪をくべる仕事をしているだけ。彼と一緒にね」
彼女の声には、甘さは微塵もない。
だが、戦場を共にする戦友だけが持つ、絶対的な信頼と、共有された目的意識の強さがあった。
「信頼しているんだな。かつての敵将を」
「ええ。少なくとも、理想を語って国民を凍えさせる政治家よりは、泥にまみれて薪を拾ってくる彼の方が、信用できるわ」
トマスは、ため息をついた。
相変わらずだ。この女性は、可憐な見た目に反して、その本質は誰よりも現実的で、そして頑固だ。
彼女は決して「洗脳」されたわけでも、「屈服」したわけでもない。自らの意志で、その場所を選んだのだ。
「……分かった。君の近況報告はもういい」
トマスは、周囲を再度警戒し、声をさらに低くした。
「本題に入ろう。リスクを冒してまで私を呼び出したんだ。
ただの旧交を温めるためじゃないだろう? ……今度は、何を欲しがっている?」
アルドナは、マグカップを置いた。
その瞳から、少女のような柔らかさが消え、研ぎ澄まされた法律家の光が宿る。
「情報よ、トマス。
北の海……ノルウェーについて、ブリュッセル(欧州NATO本部)の内部で何が話されているか。それを教えて。」
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