第二部-10 眠る資源
この話で出ている件は、史実でもロシア側が譲っている話を下敷きにしています(最終的に主張領域を半分こしてます)。
この当時ロシアは各国との協調関係のため、生き延びるために譲歩を繰り広げ、友好を求めていた形になります。
1993年、冬。モスクワ、大統領官邸・小会議室。
窓の外の白樺が最後の一葉を落とし、モスクワは再び長く厳しい冬に閉ざされようとしていた。
ヴィクトル・ペトロフ大統領府第一副長官は、手元のファイルを閉じた。表紙には『対日関係:北方領土と経済協力の展望』とある。
日本という巨大な鯨と手を結ぶのは、魅力的に見える。だが、今の日本の政局は連立政権の誕生前夜で揺れ動いており、誰と握手をすればいいのかさえ不透明だ。
今は動く時ではない。ヴィクトルは、そのファイルを机の端へと追いやった。
止まっている時間はない。南で時間を稼ぎ、西で車を作らせた。次は北だ。
ヴィクトルは、新生ロシアの最高首脳部を見渡した。
テーブルの上座には、不機嫌そうに頬杖をつくボリス・エリツォン大統領。その隣には、国家経済の設計図を引くセミョーン・アレクサンドロフ。そして、西側との協調を模索し続けるアンドレイ・コズイロフ外相。
テーブルの中央には、一枚の大きな海図が広げられていた。
バレンツ海。
その中央には、ロシアとノルウェーの双方が主張する境界線に挟まれ、40年間にわたって領有権が棚上げされてきた「グレーゾーン」が、不気味な空白として広がっていた。
「これが、外務省欧州局がまとめた基礎資料です」
コズイロフ外相が、疲れた声で説明を始めた。
「ソ連時代から、我々は『扇状線』に基づく領有を、ノルウェーは『等距離線』を主張し、交渉は40年間、完全に平行線のままです。正直に申し上げて、このナショナリズムを刺激しかねない問題を今動かすのは……」
「つまり、手付かずの氷の塊だということか」
エリツォンが、退屈そうに遮った。彼にとって、寒々しい海の境界線を巡る複雑な国際法の議論は、ウォッカのつまみにもならない。
その時、それまで黙って海図を眺めていたアレクサンドロフが、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「ボリス・ニコラエヴィチ。問題は、海の上に引く線の引き方ではありません。その線の『下』に何が眠っているか、です」
彼は、地質調査局の極秘報告書をテーブルに滑らせた。
「このグレーゾーンの海底には、西シベリアに匹敵する規模の石油と天然ガスが眠っていると推定されています。40年間、政治対立によって封印されてきた、手つかずの宝の山です」
「宝、か」
エリツォンの目の色が変わった。現金なものだ、とヴィクトルは内心で苦笑する。だが、それでいい。
「その通りです」
議論を引き取ったのは、ヴィクトルだった。
「そして、アメリカが『民主化支援』という名目で我々の首に鈴をつけようとしている今、我々はこの宝の山を、全く別のカードとして使うのです」
ヴィクトルは、3人の顔を順に見渡した。
「我々は、ノルウェーに対し、このグレーゾーンの分割交渉を、即時に再開することを提案します。我々の『新しい誠意』として、大幅な妥協も辞さない構えで」
コズイロフが息を呑む。領土的譲歩は、国内の愛国派を敵に回す劇薬だ。
「その見返りに、我々が要求するのは、単なる資源の分け前ではありません」
ヴィクトルの声は低いが、部屋の空気を支配していた。
「我々が要求するのは、彼らが北海の荒波で磨き上げた世界最高の『深海海洋油田開発技術』、そして、NATO加盟国でありながらロシアとの対話を重視するという『政治的立場』です」
彼は海図のノルウェー側を指で叩いた。
「アメリカが正面玄関(G7)の扉に鍵をかけようとするならば、我々は北の裏口から、新しいパートナーと、そしてシベリアの資源を未来永劫金に変えるための『技術』を手に入れる。
スタトイル社を引き込めば、シェルやエクソンも、指をくわえて見ているわけにはいかなくなります」
審議が終わった後、ヴィクトルは一人、執務室の隣にある小さな控え室のドアを開けた。
そこには、一人の女性が、窓の外の雪景色を眺めていた。
アルドナ・カヴァラウスカイト。
サイズの大きなセーターの袖から、指先だけを覗かせてマグカップを両手で包んでいる。その華奢な背中は、大学の図書館で本を読んでいる女子学生のように無防備で、儚げに見える。
だが、ヴィクトルは知っている。
彼女が、今まさに31歳を迎えたばかりの、成熟した知性を持つ一人の女性であることを。
そして2年前、わずか29歳にしてリトアニア独立運動の矢面に立ち、ヴィクトルと互角に渡り合った末に、国を救うために自ら「裏切り者」の汚名を被った、鋼の意志を持つ指導者であることを。
彼女は今、法的保護を持たない「ソ連国籍(存在しない国の国民)」という亡霊のような身分で、ヴィクトルの私的な法律顧問を務めている。
その裏で、彼女がバルト三国に残された「捨てられた同胞」たちのために、かつての外交ルートを使って情報を集め、地下ネットワークを維持していることを、ヴィクトルは黙認していた。
「アルドナ、アルドナ・ヴァレリエヴナ」
ヴィクトルが声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
その瞳に、ほんの一瞬——呆れとも諦めともつかない、微かな光がよぎった。
以前、やんわりと「リトアニア人には父称の習慣がない」と伝えたはずだが、この男は相変わらずだ。悪意がないのは分かっている。分かっているからこそ、もう指摘する気にもなれない。
彼女はその一瞬の感情を飲み込み、何事もなかったかのように微笑んだ。
「君に、頼みたいことがある」
ヴィクトルは、単刀直入に言った。
「ノルウェーだ。彼らのエネルギー企業、特に国営スタトイル社の内部情報が欲しい。誰が対ロシア強硬派で、誰が実利を優先する『話の通じる』現実主義者か。そして、ブリュッセルのNATO本部で、彼らが本音で何を語っているか」
アルドナは、マグカップを置くと、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、かつてヘルシンキの交渉テーブルで見せた、張り詰めた「革命家の仮面」とは別人のように、柔らかく、そして包容力に満ちていた。
それは、地獄を見てきた者だけが持つ、穏やかな大人の微笑みだった。
「……北の海ですね、閣下」
その口から紡がれた言葉は、ヴィクトルの思考を先読みしていた。
「バルト海で学んだ教訓を、今度はバレンツ海で使うおつもりでしょう? ノルウェー人は合理的です。彼らは『名誉』よりも『契約』を重んじます。……私のように」
彼女は、自嘲気味に目を細めた。
生粋のリトアニア人でありながら、祖国からその存在を抹消された女。
だが、その瞳には卑屈さはない。あるのは、ヴィクトルと同じ、「汚名を被ってでも未来を選ぶ」という覚悟を共有する者だけが持つ、静かな光だった。
「……」
ヴィクトルは、一瞬、言葉に詰まった。
ここ数年、共に仕事をしてきた。彼女の有能さと、その内にある鋼のような強さは知っていた。
だが、ふとした瞬間に見せるその笑顔は——30代の大人の女性が持つ分別と、少女のような可憐さが同居しており、ヴィクトルの思考を、一瞬だけ停止させた。
「……あ、ああ。そうだ」
ヴィクトルの声が、ほんのわずかに上ずった。彼はそれを隠すように、咳払いをした。
「その通りだ。君の洞察力には、いつも助けられる」
「ふふっ」
アルドナは、鉄仮面のようなヴィクトルの珍しい動揺に気づいたのか、悪戯っぽく笑みを深めた。
「……もし、私がその情報を閣下にもたらしたとして。その見返りに、閣下は、私と同じ、どこにも属せないパスポートを持つ人々の声に、耳を傾けてくださいますか?」
ラトビアとエストニアで進む、ロシア系住民への市民権(国籍)剥奪問題。彼女は、その救済を求めているのだ。
ヴィクトルは、彼女の瞳をまっすぐに見つめ返した。
そこには、取引相手としての計算だけでなく、一人の女性としての信頼の色が見えた。
「……約束しよう。君が望むなら、私は相応の汗をかく」
「交渉成立ですね」
アルドナは、嬉しそうに頷いた。
「スタトイルの役員リストと、オスロの政治家の相関図。……明日までに、デスクに置いておきます」
その一言で、二人の間の、もう一つの危険な契約が結ばれた。
公式の外交交渉の裏で、ヴィクトルは、モスクワの官僚たちが陰で「法律の魔女」と呼ぶ最強の駒を——そして、彼にとってかけがえのないパートナーとなりつつある女性を、北の盤上へと進めていた。
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