第二部-9 産業の血液
1993年、初春。モスクワ、大統領府。
ヴィクトルの執務机には、二つの異なる「未来」が積み上げられていた。
左側にあるのは、先日始動したばかりの「自動車産業再建計画」の進捗レポート。ドイツのボッシュ、アメリカのGMとの合弁交渉は、水面下で順調に進んでいる。ココムの網をすり抜け、西側の生産管理技術が、ロシアの工場に少しずつ、だが確実に移植され始めていた。
これは、10年後のロシアを食わせるための種まきだ。
だが、ヴィクトルは視線を右側の書類の山へと移した。
そこにあるのは、もっと切迫した、今のロシアを生き延びさせるための「輸血」に関する報告書だった。
エネルギー省からの月次報告。
原油価格は、中東情勢の不安定さを背景に、ある程度の水準を保っている。だが、それに甘えていられる状況ではなかった。産出量は頭打ち、いや、減少傾向にあった。
シベリアの既存油田は老朽化し、ポンプは錆びつき、パイプラインからは原油が漏れている。
何より致命的なのは、これ以上深く、あるいはより過酷な環境から資源を吸い上げるための「技術」が、ソ連時代から更新されていないことだった。
「陸は、限界か……」
ヴィクトルは呟き、その手は無意識にさらに別のファイルへと伸びた。
それは、ロシアが抱える数々の未解決の国境問題に関する、外務省の味気ない定例報告書だった。
千島列島、カフカースの国境線、アラスカとのベーリング海峡。どれもが解決の糸口が見えない、政治的な地雷原だ。
だが、彼の指が、一枚の海図の上で止まった。
バレンツ海。
北極圏の入り口。ロシアとノルウェーが互いに排他的経済水域(EEZ)を主張し合い、網掛けで「係争海域」と記された、広大な台形のエリア。
17万5千平方キロメートル。およそ日本の半分に近い面積の、凍てつく海。
(……ノルウェーか)
ヴィクトルは、その北欧の小国の持つ、特殊な立ち位置を脳内で反芻した。
NATO(北大西洋条約機構)の創設メンバーであり、西側陣営の優等生。
だが同時に、ロシアと陸上で国境を接する唯一のNATO加盟国として、過度な対立を望まない、極めて慎重で現実的な路線を歩んできた国。奇妙な話だが、ノルウェーの対ソ連・ロシア感情は悪くはなかった。
分かたれた双子であるスウェーデンとは異なって、だ。原因は明確だった、WW2での共闘、そして解放軍として振る舞うことなく、速やかにソ連軍が引き上げたこと。だからこそ、冷戦では双方が奇妙な共存を繰り広げることができた。
そして何よりも、彼らにはある。
北海の荒波で鍛え上げられ、世界中の石油メジャーが教えを請うほどの、世界最高峰の「海洋油田・ガス田開発技術」と、国営石油企業「スタトイル」が。
閃きが、再び彼の脳を貫いた。
自動車産業でやったことを、もっと巨大なスケールで、外交カードとして切ればいい。
これまでソ連は、この海域を一歩も譲らず、軍事的な聖域として囲い込んできた。
だが、囲い込んでいるだけでは、氷の下の資源は一銭にもならない。我々には、あの深く冷たい海からガスを掘り出す技術も、それを液化して運ぶ技術もないのだから。
(ならば、餌にする)
ヴィクトルの思考が、高速で戦略を組み立てていく。
ノルウェーとの国境画定交渉を再開する。
ただし、単に線を引くのではない。この広大なグレーゾーンを「未確定の資源の共同管理区域」として定義し直すのだ。
係争を棚上げし、あるいは大胆に分割し、その代わりにあらゆる開発プロジェクトにロシア企業と、ノルウェー企業(スタトイル、ノルスク・ハイドロ)の「合弁」を義務付ける。
これは、「未確定の資源の山分け」という、極めて実務的で、ビジネスライクな取引だ。
政治的な国境線が決まれば、リスクを嫌う西側の石油メジャー(エクソンやシェル)も、ノルウェーという「安全な玄関口」を通してなら、喜んで金と技術を投下するだろう。
ロシアが差し出すのは、採掘権という名の「場所」。
ノルウェーから引き出すのは、開発資金という「金」だけではない。
シベリアの凍土や、北極海の深海に眠る手つかずの資源を、未来永劫ドルに変え続けるための「最先端オフショア技術(深海掘削・浮体式生産設備)」そのものだ。
ヴィクトルは、戦略を練り直す。
G7の政治的結束は崩せないかもしれない。だが、エネルギー安全保障という点において、中東に依存したくない欧州にとって、北極海からの安定供給は喉から手が出るほど欲しいはずだ。
成功すれば、国家の未来を支える産業技術と、恒久的な外貨収入のパイプが手に入る。
成功の確率は、高い。相手もまた、資源を欲する「商人」の顔を持っているのだから。
「……チェルノフ」
ヴィクトルは、内線電話の受話器を取った。
「外務省欧州局に連絡。バレンツ海のグレーゾーンに関する、過去40年間の全ての交渉記録と、係争点になっている大陸棚の地質データをまとめさせろ」
「はっ。すぐに」
「それから、産業省とエネルギー省に、ノルウェーのスタトイル社が持つ深海油田掘削技術、特にトロール・ガス田で運用されている世界最大級の海洋プラットフォーム技術についての詳細な技術レポートを明日までに提出させろ」
ヴィクトルは、一度言葉を切り、窓の外の灰色の空を睨んだ。
「外務大臣には、オスロへの非公式訪問の準備をさせろ。『雪解けの季節だ』とな」
彼は、受話器を置いた。
足元にいる脂の乗った栄養豊富なアザラシと、狩り場を共有する。ヴィクトルの思考は、国家という巨大な捕食者のために餌場を探す、牧童のものへと完全に切り替わっていた。
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