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第二部-8 金融経済

ワシントンD.C.、ホワイトハウス。ウエストウイング。


1992年、冬。

モスクワの凍てつく空気とは対照的に、空調が完備されたホワイトハウスの一室は、快適な室温と、そしてピリつくような苛立ちに包まれていた。


「……正気かね? ゼネラル・モーターズも、フォードもだと言うのか」


国務次官ロバート・フィッシャーは、分厚い報告書をマホガニーのデスクに放り投げた。

ハーバードで経済学を修め、冷戦後の世界経済秩序ニュー・ワールド・オーダーをアメリカの国益のために再設計することを至上の使命とする男。彼の目には、ロシアなど「敗北した巨大なガソリンスタンド」以上の価値はなかったはずだった。


だが、目の前の現実は違った。


「はい、次官」


商務省の補佐官が、脂汗を拭きながら答えた。


「デトロイトのロビー活動は猛烈です。『ドイツや日本に市場を奪われるくらいなら、悪魔と手を組んででも先に橋頭堡を築く』と。彼らはすでに、トリヤッチやニジニ・ノヴゴロドの工場に技術者を送り込み始めています」


「馬鹿どもめ」


フィッシャーは、軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。


「奴らは、自分たちが何をしているのか分かっていない。目先の四半期決算のために、国家のグランド・デザインを売り渡したんだ」


彼は立ち上がり、窓の外のローズガーデンを見下ろした。

フィッシャーの描いたシナリオは完璧だったはずだ。

ロシア経済を真綿で締めるように窒息させ、ハイパーインフレと供給不足で国民を疲弊させる。そして、救済と引き換えに天然資源の採掘権と市場の支配権を、二束三文でアメリカ資本が買い叩く。

ロシアは永遠に、付加価値を生まない「資源植民地」として、アメリカの繁栄を底辺で支える存在になるはずだった。


だが、ヴィクトル・ペトロフという名の小賢しい官僚が、そのシナリオに穴を開けた。


「ココムの抵触はどうなっている」


フィッシャーは振り返り、鋭く問いかけた。


「自動車の電子制御チップだ。軍事転用可能だと言いがかりをつけて、輸出を差し止められないのか」

「それが……難しいのです」


補佐官は、困惑した顔で首を振った。


「ロシア側が求めているのは、最先端のチップではありません。2世代前の、民生用としては枯れた技術です。これを『安全保障上の脅威』と認定すれば、アメリカ国内の家電メーカーやパソコンメーカーまで規制に巻き込まれます。産業界全体を敵に回すことに……」


さらに、と補佐官は続けた。


「彼らが主力としている『技術移転』の中身が、厄介です。モノではないのです」

「モノではない?」

「はい。生産管理、品質管理(QC)、在庫管理のノウハウ……いわゆる『トヨタ生産方式リーン・マニュファクチャリング』の移植です。

GMの役員はこう言いました。『我々はミサイルの作り方を教えているんじゃない。整理整頓と、ストップウォッチの使い方を教えているだけだ』と。

……次官、我々には『カイゼン』という経営哲学を禁輸リストに載せる権限はありません」


フィッシャーは、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。

やられた、と思った。

かつてアメリカ企業が日本から学んだその手法を、今度はロシアに教えることで、規制の網をすり抜ける。

「デュアルユース(軍民両用)」のグレーゾーンを突いた、見事な反撃だった。


「……ヴィクトル・ペトロフか」


フィッシャーは、その名を忌々しげに呟いた。

あのジュネーブで、彼と対峙した表情のない男。

彼は、アメリカが「民主化と市場経済」という美しい言葉でロシアを武装解除しようとしているのを、完全に見抜いていた。

あの瞳を覚えている。……かすかな敬意を感じたのは事実だ。だが、覇権国家の官僚として、この詐術には嫌悪を禁じ得ない。あろうことか、アメリカの最大の武器である「資本の強欲さ」を逆手に取り、我々を出し抜いたのだ。


「いいだろう」


フィッシャーは、感情を押し殺して席に戻った。

自動車産業での敗北は認めるしかない。デトロイトの票田を敵に回せば、次の大統領選に響く。


「だが、忘れるな。車を作るには金がいる。工場を回すにも、道路を直すにも、莫大な資本が必要だ」


彼の瞳に、金融家の光が宿った。


「彼らは『実体経済』で防壁を築いたつもりだろうが、我々の主戦場はそこではない。『金融』だ」


フィッシャーは、別のファイル――IMFとウォール街の投資銀行に関する極秘メモ――を手に取った。


「産業が育てば、彼らは必ず欲を出す。もっと投資したい、もっと成長したいと。その時こそ、我々の出番だ。融資、債権、ヘッジファンド……。実体を持たない『マネー』という名の毒薬を、血管に直接流し込んでやる」


彼は、笑った。


「太らせてから食うのも、悪くない。

ロシアが自前の足で立ち上がったと思い込んだその瞬間に、足元の床(通貨)を抜いてやる。それが、真の資本主義の恐ろしさだ」


鷲は、獲物を逃したわけではない。

より大きく、より美味になるまで、空高く旋回して待つことにしただけだ。

ワシントンの空は、どこまでも高く、そして無慈悲に晴れ渡っていた。

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