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第二部-7 処女地

モスクワ。ホテル・メトロポール、貴賓室「ボヤール」。


帝政ロシア時代の絢爛豪華さを今に伝えるその部屋には、クリスタルのシャンデリアが輝き、最高級のウォッカとキャビアがテーブルを埋め尽くしていた。

だが、そこに集められた男たちの目は、料理ではなく、上座に座る一人の男に釘付けになっていた。


ゼネラル・モーターズ(GM)、フォード、フォルクスワーゲン、フィアット、そしてトヨタ。

世界の自動車産業を支配する「メジャー」たちの極東・欧州担当役員たちが、一堂に会していた。

彼らは皆、仕立ての良いスーツを着こなし、普段は競合他社として激しく火花を散らす仲だ。だが今夜だけは、共通の獲物――あるいは共通の敵――を前に、奇妙な連帯感を漂わせていた。


「ようこそ、モスクワへ」


ヴィクトル・ペトロフは、グラスを掲げた。

今夜の彼は、いつもの黒い官僚然とした風貌ではなかった。仕立ての良いイタリア製のスーツに身を包み、その微笑みには、ホスト役にふさわしい温かみがあった――少なくとも、そう見えた。


「お集まりいただき感謝します。政治家たちが騒がしい昨今ですが、ビジネスの話は、静かな場所でするに限る。……そうでしょう?」


最後の一言に、親しげな笑みを添える。

彼が見回す視線の先には、西側資本主義の権化たちがいる。

彼らは知っている。もしソビエト連邦が、西側の予測通りに無秩序に崩壊し、経済が破綻していれば、彼らはこのような場に出てくる必要さえなかった。

ハイエナのように死肉を漁り、二束三文で工場を買い叩き、「指導」という名目で市場を蹂躙できただろう。ヴィクトルのような官僚が、対等の口を利く余地などなかったはずだ。


だが、現実は違った。

ロシアは踏みとどまった。貧しくはあるが、秩序は保たれ、政府は機能し、何より「石油」という血がまだ通っている。

死肉ではない。手負いだが、巨大な購買力を秘めた「眠れる熊」がそこにいる。


「単刀直入に申し上げましょう」


ヴィクトルは、前置きを切り捨てた。だが、その口調はあくまで柔らかい。


「我が国、ロシア連邦の人口は約1億5千万人。現在、自家用車の普及率は西側の数分の一にも満たない。そして、我々の国民は飢えています。粗悪な製品ではなく、あなた方が作るような、美しく、高性能な車に」


彼は、テーブルの上に一枚のグラフを置いた。そこには、右肩上がりに伸びることが約束された、潜在需要の予測曲線が描かれていた。


「10年後、ここは欧州最大の自動車市場になります。誰かが、その果実を独占するでしょう」


GMの役員が、葉巻を置き、渋い顔で口を開いた。


「ペトロフ氏。魅力的な話だ。だが、あなたの政府が課した100%の関税がある限り、我々は一台たりとも売ることはできない。ワシントンも激怒している」

「ええ、存じています」


ヴィクトルは、困ったように両手を広げてみせた。その仕草は、ロシアの官僚というよりも、イタリアの商人のそれに近かった。


「政治とは、厄介なものです。私のボス(エリツォン)は、国内産業を守ると国民に約束してしまった。私も、西側の政府が掲げる『公正な競争』という方向性には、大いに共感するのですがね」


彼はそこで一度言葉を切り、身を乗り出した。

その瞳の奥に、旧知の友人に秘密を打ち明けるような光が浮かぶ。


「ですが、紳士諸君。あなた方は政治家ではない。商人だ。

高い壁があるなら、それを乗り越えるのではなく、壁の内側に入ってしまえばいいとは思いませんか?」

「……どういう意味だ?」


フォルクスワーゲンの役員が、身を乗り出した。


「関税がかかるのは『輸入品』だけです」


ヴィクトルは、旧知の友人に耳打ちするように言った。


「もし、あなた方が我が国のメーカーと手を組み、このロシアの土地で、ロシアの労働者を使い、ロシア製の部品を使って車を作ったなら? それは『国産車』です。関税はかからない。それどころか、我々政府は、その車を公用車として優先的に採用し、税制優遇さえ与える用意がある」


会議室の空気が、一変した。それは、政治的な圧力への対抗策ではない。

ヴィクトルは、彼らに「抜け道」を提示したのだ。

関税という高い壁は、外部の敵を阻むためのものであると同時に、一度内側に入った者にとっては、競合他社を排除してくれる「最強の防壁」になる。


「条件は一つだけです」


ヴィクトルは、指を一本立てた。


「技術を、持ってきていただきたい。完成品を売るだけの焼畑農業はお断りだ。我々の工場に、最新の生産管理、電子制御、安全技術を教え、共に汗を流すこと。

その『授業料』を払える者だけに、我々はこの1億5千万人の市場への独占的なアクセス権を与えます」


「しかし……ココム(輸出規制)が……」


トヨタの担当者が、躊躇いがちに発言した。


「ココムは軍事技術への転用を禁じているだけです」


ヴィクトルは即答した。その口調は、あくまで穏やかだったが、一分の隙もなかった。


「民生用のABSや、工場の品質管理ノウハウが、ミサイルになりますか? なりませんね。

それに、あなた方の政府が何と言おうと……」


彼は、一人一人の目をゆっくりと見渡した。その視線は、脅すのではなく、誘うものだった。


「最初に手を挙げた一社が、この市場の覇者になるのです。

もしGMが躊躇えば、フォルクスワーゲンが取るかもしれない。トヨタが遠慮すれば、フィアットが走るかもしれない」


そこにあるのは、恐怖ではない。「強欲」だ。

ライバルに出し抜かれる焦りと、未開拓の市場を独占したいという欲望。

資本主義の怪物が、政治の鎖を引きちぎろうとする音が、ヴィクトルには聞こえるようだった。


「さあ、どうされますか? ワシントンやブリュッセルの顔色をうかがって、指をくわえて見ているか。

それとも、我々と手を組み、ユーラシア大陸という巨大な金鉱を掘り当てるか」


ヴィクトルは、自らウォッカをグラスに注ぐと、隣のGM役員のグラスにも傾けた。


「早い者勝ちですよ、紳士諸君」


沈黙。

だが、それは拒絶の沈黙ではなかった。

彼らは皆、頭の中で猛烈な勢いで計算機を叩き、そして、どうやって本国の政府を黙らせ、あるいはロビー活動で規制を骨抜きにするか、その算段を始めていた。


(食いついた)


ヴィクトルは、心の中で呟いた。

「開かれた市場」という建前など、欲望の前では紙切れ同然だ。

彼は、西側の最大の武器である「資本の力」を、西側の政治的結束を破壊するための楔として打ち込んだのだ。


「……乾杯ザ・ズダローヴィエ


誰かが、小さく呟き、グラスを持ち上げた。

それに続き、次々とグラスが掲げられる。

モスクワの夜、共産主義の残骸の上で、資本主義の欲望と、ユーラシア的な野心が、奇妙で、そして強固な握手を交わした瞬間だった。

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