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第二部-6 荒波

1992年、秋。モスクワ、大統領府(クレムリン)。


ヴィクトルの執務室の窓から見えるイワン大帝の鐘楼が秋の冷たい雨に濡れ、鉛色に沈んでいた。

新国家建設事業はこの陰鬱な空のようにすっかり色褪せ、現実という泥濘に足を取られ始めていた。


ドアがノックされ、血の気の失せた顔の男が入ってきた。

ロシア連邦初代外務大臣、アンドレイ・コズイロフ。

西側との協調を何よりも重んじ、ロシアの民主化と国際社会への復帰を信じて疑わない生粋の親欧米派外交官だった。


「ヴィクトル・パーヴロヴィチ……またハリントン大使が」


コズイロフはまるで死刑宣告を告げるかのように力なく言った。その手にはアメリカ大使館からの正式な抗議文が握られている。


「今度は何だ。大使館の暖房が壊れたか?」


ヴィクトルは山積みの国内経済報告書から顔を上げずに尋ねた。


「冗談を言っている場合ではありません! 全てです」


外相は悲鳴に近い声を上げた。


「我々が導入を決定した自動車への高関税措置、そして合弁事業の義務化……。彼らはこれを『ジュネーブ合意の精神に反する一方的な市場封鎖であり、不公正な貿易慣行だ』と断じました。パートナーシップへの裏切り行為だとまで……」

「パートナーシップとは一方のルールをもう一方が無条件で飲み込むことではないはずだがな」


ヴィクトルはペンを走らせたまま呟いた。


「問題は言葉の定義ではありません!」


コズイロフがデスクに詰め寄る。


「米国商務省が動いています。彼らはこの措置が撤回されない場合、通商法に基づく報復措置も辞さない構えです。そして……IMFと世界銀行の担当者からも非公式な通達がありました」


コズイロフの声がさらに沈んだ。


「ハリントン大使と同じ文脈でこう言っています。『市場開放という構造改革が進まないのであれば、ジュネーブで約束された次期金融支援の実行は保証できない』と。……事実上の融資凍結の脅迫です」


ヴィクトルはようやくペンを置いた。

国家の止血のために、あのジュネーブで軍を切り売りしてまで必死に引き出した命の金。それをアメリカは政治的圧力のカードとして切ってきたのだ。

自由貿易という美名の下で行われる露骨な内政干渉。アメリカ外交の常套手段だ。


「そして最悪なことに……」


コズイロフは最後の一枚をテーブルに置いた。


「これはドイツと日本の大使館からもたらされた情報です。アメリカの呼びかけでG7が共同で、我々の保護主義を非難する声明を準備していると。我々は完全に包囲されつつあります」


コズイロフは口元を震わせて哀願した。


「副長官……ここは一度譲歩すべきです。関税の撤廃、あるいは適用時期の延期を。今の我々に西側全てを敵に回して戦う体力はありません。支援が止まればロシアは死にます!」


コズイロフの主張は外交官としては正しい。

だがヴィクトルは知っていた。一度譲歩すれば彼らは次々と要求を吊り上げてくる。自動車の次は航空機、その次はエネルギー。骨の髄までしゃぶり尽くされるまで、この「指導」は終わらない。


「外相」


ヴィクトルは片手を上げて彼の言葉を遮った。


「君は嵐の日に波の高さを一つ一つ数えて、その都度船長に『沈没します』と報告するのかね?」

「え……?」

「嵐が来ていることは分かった。正確な情報に感謝する」


ヴィクトルは立ち上がり、雨に煙るモスクワの街を見下ろした。


「だが我々が今すべきは、波の高さを嘆いて縮こまることではない。帆をどう張り、舵をどう切ってこの波を乗り切るかを決めることだ」

「し、しかし、相手はG7です! 波を乗り切るどころか船ごと叩き割られます!」

「叩き割れるものか」


ヴィクトルの瞳に光が宿った。


「彼らは脅しているだけだ。なぜなら彼らもまた、ロシアという船が沈没することを恐れているからだ。我々が破綻し、核管理が崩壊し、数千万の難民が欧州へ雪崩れ込む悪夢。そのリスクに比べれば自動車市場の開放など些末な問題に過ぎない」


これはチキンレースだ。

西側は「金を止めるぞ」と脅し、ロシアは「俺たちが倒れたらお前たちも道連れだ」と無言で睨み返す。相互依存という名の人質交換。


「ハリントン大使にはこう伝えろ。『パートナーシップとは互いの国内事情を尊重することから始まるはずだ。我々は民主主義のコストを払っているのだ』と。

IMFには予定通り、我々の国内改革案を提出しろ。一歩も引くな」

「……正気ですか」

「正気だとも。ボールは我々にもあるのだと思い出させてやれ」


ヴィクトルは呆然とするコズイロフから顔をそむけて手を振った。

彼はこの「見えざる戦争」の本当の戦場が、外務省の応接室ではないことを知っていた。

外交官同士がきれいごとを言い合っている間に、実利で動く人間を動かせばいい。


「さて、チェルノフ」


外相がよろめくように部屋を出て行った後、ヴィクトルは腹心に声をかけた。


「招待状の準備はできているか?」

「はい。ドイツのシーメンス、ボッシュ。アメリカのGM、フォードの役員たちへ。極秘の晩餐会の招待状です」

「よろしい」


ヴィクトルは笑った。

政府(ホワイトハウス)が何を言おうと、資本家たちの欲望は別だ。目の前にぶら下がった巨大な市場という肉を前にして、彼らが「政府の顔色」をいつまで守れるか。

ここからは外交ではなく、欲望と利権のゲームだ。


「始めようか。西側の『分断工作』を」



数週間後、ロシア、モスクワ。


開かれた市場、それが建前だ。

ヴィクトルは目の前に並ぶ西側自動車のメジャーたちを眺めながらそう考える。

そしてロシアは弱体化したとはいえ、いまだ世界有数の購買力を持つ市場だった。


ソ連が、あるいはコントロールできずに破綻すれば、彼らはなめきった態度で"指導"を名目に介入しただろう。ヴィクトルが活躍する余地すらなかったはずだ。だが今カードはこちらにある。

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