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第二部-5 適者生存

1992年、晩秋。モスクワ、ロシア連邦 産業省・大会議室。


窓の外では、モスクワの街路樹が最後の黄金色の葉を散らし、冬の訪れを告げていた。会議室の空気は、新しい時代の始まりを告げる期待と、70年間続いた古い世界の終わりを告げる不安とで、重く張り詰めていた。


テーブルの長辺には、ヴィクトルがウラルや沿ヴォルガの自動車工場から自ら選んで招集した、百戦錬磨の現場技術者たちが座っていた。彼らは皆、ソ連時代から工場の床の油にまみれ、その手で何十万台もの車を世に送り出してきた男たちだ。その向かいには、産業省の官僚たちが、硬い表情で座っている。


「諸君、集まってくれて感謝する」


審議の口火を切ったのは、上座に座る大統領府第一副長官、ヴィクトル・ペトロフだった。


「先日のウラル視察で、エリツォン大統領は約束した。我々の市場と雇用は、政府が全力で守ると。その約束に従い、我々は外国製自動車に100%近い懲罰的な関税を課した。これで、我々には『時間的猶予』が生まれた」


現場の技術者たちの間に、安堵の空気が流れる。だが、ヴィクトルはすぐにその空気を、強い言葉で断ち切った。


「しかし、勘違いしてはならない。この関税障壁は、嵐が過ぎるのを待つための『避難所』ではない。次の戦いに備えるための『塹壕』だ。この塹壕の中で、我々は錆びついたマスケット銃を捨て、新しい武器を手にせねばならない」


彼は、VAZラーダ自動車工場から来た、パヴェル・ベルスキーという名の老設計主任に目を向けた。


「ベルスキー主任。君の報告書は読んだ。率直な意見を聞きたい。もし今、政府が虎の子の外貨を投じて、君の工場にドイツ製の最新鋭NC(数値制御)工作機械を導入したら、何が起きる?」


指名されたベルスキーは、ゆっくりと立ち上がった。その節くれだった指は、油と鉄粉にまみれた技術者としての人生を物語っていた。


「……ありがとうございます、副長官閣下」


彼は深く一礼した。


「ですが、もしそのようなことをすれば、我々の工場は半年で稼働停止に追い込まれるでしょう」


官僚たちから、驚きの声が上がる。最新の機械があれば、生産性は上がるはずではないか、と。ベルスキーは首を振った。


「雇用の問題だけではありません。メンテナンスの問題です。西側の最新工作機械は、ココム(対共産圏輸出統制)の名残で、心臓部の電子制御ユニットがブラックボックス化されています。故障しても我々は手が出せず、高価なドイツ人技師を呼び、部品が届くのを数ヶ月待つことになる。つまり、工場の生殺与奪の権を、外国に握られるということです」


さらに、と彼は付け加えた。


「我々の現場には、まだそれほどの精密機械を扱える電力の安定性も、空調管理もありません。メルセデスのエンジンを、馬車の車台に載せるようなものです」


それは、現場を知る人間にしか語れない、身も蓋もない現実だった。ヴィクトルは、満足げに頷いた。


「その通りだ。外から買ってきた魔法の杖では、この国は救えない」


ヴィクトルは立ち上がり、会議室の全員を見渡した。


「だから、我々は別の道を選ぶ。本日、政府は自動車産業再建のための、二つの国家方針を決定する」


彼はホワイトボードに、二つの言葉を書いた。


「第一に、『教師』を招き入れる」


ヴィクトルは説明を始めた。西側メーカーに対し、保護されたロシア市場への参入許可と引き換えに、合弁事業(JV)を義務付ける。

ただし、そこで作らせるのは完成車ではない。ボッシュやシーメンスといった部品メーカーを呼び込み、ABS、エアバッグ、インジェクション(燃料噴射装置)といった、ロシアに技術基盤がない「電子部品」の現地生産を行わせる。


「彼らの役割は、あくまでロシア人技術者に、西側の品質管理と電子技術のイロハを教える『教師』だ。市場という授業料を払い、我々はそのノウハウを盗む。そして、第二に」


ヴィクトルの声に、熱がこもった。


「我々は、我々自身の『工房』を建設する」


彼は、軍需産業や宇宙開発部門から最高の頭脳を集め、国家プロジェクトとしてロシア独自の工作機械を開発すると宣言した。


「軍縮で余剰となった軍事工場の旋盤やプレス機、そして頑丈さだけが取り柄の軍用制御技術。これらを民生用に転用する。性能は、最初はドイツ製の二流コピーかもしれない。だが、それはロシアの技術者が、ロシアの労働者のために作る、故障しても自分たちで直せる『我々のマザーマシン』だ」


彼は会議参加者に向かって熱弁を振るう。参加者たちもまた、彼の熱気に引きづられつつあった。


「我々は、教師から電子部品ソフトの作り方を学び、自らの工房で作り上げた機械ハードで、新しい車体を作る。そして、それを組み合わせるのだ」


ヴィクトルは、再びベルスキーに向き直った。


「ベルスキー主任。君に、この『ロシア製工作機械開発委員会』の委員長を命じる。軍と民間の最高の頭脳を集め、西側の模倣でも構わん、まずは『止まらないライン』を作れ」


そして、彼は産業省の官僚たちを見た。


「君たちは、西側の部品メーカー……ボッシュ、ヴァレオ、デンソー……全てのメーカーと接触しろ。誰が我々の『教師』になる気があるのか、探り出せ。『巨大なロシア市場を独占できる』という餌をぶら下げてな」


ヴィクトルは、命令を下し終えると、静かに席に座った。

会議室は、彼の示した壮大で、泥臭く、しかし現実的な計画への興奮と戸惑いに満ちていた。


魔法はない。あるのは、泥にまみれながら基礎を積み上げる、長い道のりだけだ。

ロシア自動車産業の、運命の歯車が、今、静かに、しかし確実に回り始めた。

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