第二部-4 自動車産業
1992年、秋。ウラル自動車工場(UralAZ)。
チェリャビンスク州ミアスの街に冷たい雨が降っていた。ヴィクトルが乗る黒塗りのヴォルガは泥でぬかるんだ道を大きく揺れながら、巨大な工場へと向かう。スヴェルドロフスクから続くこの道は、彼が官僚だった十数年前から何も変わっていなかった。
「ひどい道だな」
隣に座るエリツォンが不機嫌そうに呟いた。
「これでは自慢のトラックも荷台を軽くして走らざるをえん」
工場に到着すると、彼らを待っていたのはソ連時代から変わらぬ、誇りと不安が入り混じった技術者たちの顔だった。
巨大なプレス機が轟音を立て、頑丈なトラックのフレームがラインを流れていく。だがその活気の裏には西側から流入する中古車に市場を奪われ、工場の未来が見えないことへの深い憂いが漂っていた。会議室でヴィクトルとエリツォンは、工場の設計主任やベテラン技師たちと向き合っていた。
「大統領閣下、副長官閣下」
白髪の設計主任が震える声で、しかしその背筋は誇り高く伸ばしたまま口を開いた。
「我々が作っているトラックは世界一です。シベリアの永久凍土も中央アジアの砂漠も走破できる。構造は単純で、どんな田舎の修理工でもハンマー一つで直せる。まさに物流のロバです」
彼の言葉に他の技師たちも強く頷いた。だが主任の顔はすぐに曇る。
「しかし…西側から流れてくる雑誌や報告書を目にするたびに、我々は悩んでいます。彼らのトラックには快適な座席があり、ABSというブレーキがあり、衝突しても運転手を守るための設計がされているという。我々にはその技術がない。そしてそもそもそれが必要なのかどうかすら、我々には判断がつかないのです」
彼は懇願するようにエリツォンを見た。
「我々に必要なのは時間と、そして明確な国家としての方針です。このままでは我々は外国の安い中古車に市場を食い潰され、技術を高める前に倒れてしまいます。我々は何を目指すべきなのか、国策として示していただきたい」
その痛切な訴えに会議室は重い沈黙に包まれた。
その沈黙を破ったのはエリツォンだった。彼はゆっくりと立ち上がると、会議室の窓から雨の中に広がる広大な工場を見渡した。そして振り向くと、雷鳴のような声で言った。
「諸君!顔を上げろ!」
エリツォンは政治家ではなく、かつての、このウラルの地で労働者たちと共に汗を流した男の顔になっていた。
「君たちの技術はこの国の宝だ!このロシアの広大な大地を繋いできたのはクレムリンの官僚ではない!君たちが作った、この無骨で力強いトラックだ!それを外国の安物などに、決して売り渡したりはしない!」
彼は設計主任の肩を強く掴んだ。
「私が約束する!政府は君たちの市場と雇用を、全力で守る!君たちは何も恐れることはない。ただ今まで通り、ロシア最高のトラックを作り続けてくれればいい!このボリス・エリツォンが君たちの盾となる!」
その言葉に、技術者たちの顔にみるみる生気が戻っていく。拍手が会議室に湧き起こった。
ヴィクトルはその光景を、一歩引いた場所から見ていた。
(…見事なものだ)
この男は人々の心を掴み、希望の火を灯す天才だ。だが、とヴィクトルは考える。希望だけでは冬は越せない。
工場へ来る道すがら、彼は気づいていた。この国には自動車社会を支えるための基幹インフラが、あまりにも不足している。舗装された道路、ガソリンスタンド、整備工場、部品の供給網。それら全てが西側に比べて半世紀は遅れている。トラックの性能以前の問題だ。
ヴィクトルはこの国の現実と、西側との絶望的なまでの差を改めて痛感していた。資本が足りない。そして何より、機微には触れない純粋な民生技術…生産管理、品質管理、安全基準といった近代工業の基礎となるノウハウが、この国には決定的に欠けている。
その夜、ミアスのホテルの一室。
上機嫌なエリツォンがグラスの水を喉に流し込んでいた。
「どうだった、ヴィクトル。これで連中も息を吹き返しただろう」
「はい。あなたの言葉が彼らの心を救いました」
ヴィクトルは短く頷いた。そして続けた。
「あなたの言葉が彼らに時間を与えた。ですがその時間を使って何をすべきかを計画するのが、私の仕事です」
彼はエリツォンの前に一枚のメモを置いた。
「明日モスクワに戻り次第、外国製自動車への懲罰的な関税を導入する法案を準備します。あなたが約束した通り、国内市場は完全に保護する」
「うむ、それでいい」
「ただし条件があります」
ヴィクトルはエリツォンの目をまっすぐに見つめた。
「保護された国内市場への参入を望む西側メーカーに対し、技術供与を前提とした合弁事業を義務付けます。我々に足りない安全技術、環境技術、そして生産管理のノウハウを、彼ら自身にこのロシアの地で教えさせるのです」
それはエリツォンが約束した「保護」とは、似て非なるものだった。
ただ守るのではない。守られた檻の中に西側という名の教師を招き入れ、スパルタ教育を施させる。
「我々は彼らの資本と民間技術を導入する必要があります」
ヴィクトルは静かに、しかし揺るぎない確信を持って言った。
「それなくしてこの国の自動車産業に未来はありません」
ヴィクトルの言葉にエリツォンはすぐには答えなかった。彼は大きな手で顔を覆い、長く、そして重い息を吐いた。先ほどまでの上機嫌な空気はどこかへ消え去っていた。
「ヴィクトル…」
やがて彼は顔を上げた。その目には政治家としての深い疲労と、この国の民を想う指導者としての憂いが浮かんでいた。
「お前は、少し急ぎすぎているのかもしれん」
その静かな一言は、ヴィクトルに初めて投げかけられた疑問だった。
「今日あの工場で技師たちの顔を見たか」
エリツォンは続けた。
「俺が『市場を守る』と言った時、彼らは確かに喜んだ。だがその目の奥には戸惑いと不安があった。市場とは何か、競争とは何か、彼らはまだその本当の意味を理解してはいないのだ」
エリツォンは立ち上がり、ホテルの窓から雨に濡れるウラルの夜景を見下ろした。
「このロシアにとって市場経済の導入が始まって、まだ2年にもならん。俺たちが若い頃は、レーニンのNEP(新経済政策)は資本主義への堕落だと教え込まれ、ゴスプラン(国家計画委員会)の計画こそが絶対だと信じてきた。それが、ゴルバノフが現れて『ペレストロイカ』だと言い、無理やり頭を切り替えさせられた。そして今度はお前がゴルバノフの理想主義を否定し、『現実的な市場経済』へともう一度頭を切り替えろと言う」
彼はヴィクトルに向き直った。
「モスクワの会議室にいる我々にはその違いが分かる。だが現場で汗を流している連中にとってはどうだ?彼らにしてみれば、またクレムリンのお偉方が何か新しい訳の分からない言葉を叫び始めた、くらいにしか思えんのだ。70年かけて染み付いた働き方、考え方をたった数年で変えろと言っても、現場はついてこれていない」
その言葉には民衆の肌感覚を知る、叩き上げの政治家ならではの重みがあった。ヴィクトルが数字と効率で国を動かそうとするのに対し、エリツォンは人々の感情や戸惑いをこそ最も恐れていた。
「お前の言うことは正しい。西側の技術は必要だろう。だがその改革の速度に、国民が耐えられるのか。あまりにも急激な変化は必ず歪みを生む。お前はその点を分かっているのか」
「……」
ヴィクトルは答えなかった。エリツォンの言うことは真実だった。彼はこの国の民を、その限界を超える速度で未来へと無理やり引きずっていこうとしている。その過程で多くの者が振り落とされるであろうことも、彼は計算に入れていた。
「ですが」
ヴィクトルは静かに口を開いた。
「世界は我々が追いつくのを待ってはくれません。我々がためらっている間に、彼らはさらに先へ進んでしまう」
「分かっている」
エリツォンは再び深く息をついた。
「分かっているさ。だからこそ俺の役割があるのだろう」
彼はヴィクトルの肩に、熊のように大きな手を置いた。
「お前は進め。だが俺は時々こうしてお前の襟首を掴んで、後ろを振り返らせる。それが俺の仕事だ。忘れるなよ、ヴィクトル」
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