第二部-2 多推進機構
ヴィクトルの言葉に、セルゲイ・ヴォルコフの目が輝いた。彼は待ってましたとばかりに口を開き、夢見ていた未来のシステムについて語ろうとした。だが、その言葉が発せられるよりも早く、鋭い声がそれを遮った。
「黙らんか、セルゲイ!」
声の主は、会議室の上座に座っていた男の一人だった。戦略ロケット軍司令官、アンドレイ・シェスタコフ将軍。肩には少将の階級章が重々しく輝き、その顔には冷戦の最前線を守り抜いた厳しさが深く刻まれている。 彼はセルゲイを目だけで厳しく叱りつけながら、まるで雛をかばう親鳥のように、その前にゆっくりと進み出た。
「副長官閣下、ご無礼をお許しいただきたい。この若造は、まだ公式な発言の許しを得ておりません」
シェスタコフは、ヴィクトルに対して深く頭を下げた。その態度は国家への絶対的な忠誠心を持つ、古き良きソビエト軍人のそれだった。だが、彼の背中に隠れるように立つセルゲイを見つめるその目には、叱責の中に隠しきれない親愛の情が滲んでいた。
ヴィクトルはふと気づいた。彼らの姿は、まるで年の離れた頑固な叔父と、その将来を案じる無骨な保護者のようだと。
「将軍、彼をここに連れてきたのは、君か」
ヴィクトルの問いに、シェスタコフは静かに頷いた。
「はっ。この男の頭脳が、いずれロシアの役に立つと判断いたしました。……生意気で、世間知らずではありますが」
シェスタコフは現実主義者であり、根っからの懐疑主義者だ。戦略ロケット軍の司令官として、彼は甘い夢物語を信じない。常に最悪の事態を想定し、国家の安全保障という、ただ一点から物事を判断する。その彼がこれほどまでに若き大学院生を庇護するのは、異例中の異例だった。
「彼の提言とやらは、君も目を通したのか?」
「もちろんです」
シェスタコフは断言した。
「馬鹿げた夢物語です。少なくとも、今の我々の常識では実現不可能でしょう。ですが……」
彼は、ちらりとセルゲイを振り返った。
「その理論の根幹には、無視できない輝きがある。……そう判断いたしました」
その言葉に、ヴィクトルは確信した。シェスタコフ将軍は、セルゲイ・ヴォルコフという若者の才能を、誰よりも信じているのだ。この老練な軍人こそが、この夢見がちな青年の、最高の後見人なのだと。
ヴィクトルは、再びセルゲイに視線を戻した。彼の背後には、ロシア最強の軍の一つが、静かに控えている。
「よろしい」
ヴィクトルは、シェスタコフに向かって言った。
「将軍がそこまで言うのなら、聞く価値はあるのだろう。続けさせたまえ、ヴォルコフ君。君の『馬鹿げた夢物語』を」
シェスタコフ将軍に促され、セルゲイ・ヴォルコフは少しドギマギしながら、しかしその瞳の奥に確かな熱を宿して話し始めた。その内容は百戦錬磨のヴィクトル・ペトロフをもってしても、驚かせるに足るものだった。
「は、話自体は……単純です」
セルゲイは、おずおずと切り出した。
「我が国が誇る、世界最高の液体燃料ロケットエンジン、RDシリーズ。特にエネルギア用のRD-170やその派生型は、単体で驚異的な推力を誇ります。ですが、これをただ単発で使い続けるだけでは、西側の物量と技術革新に対抗できません」
彼は、会議室に運び込まれていた黒板へと歩み寄ると、震える手でチョークを握った。そしてまるで何かに取り憑かれたかのように、数式と図形を書き殴り始めた。
「俺……失礼、私が提案するのは、これらのエンジン、つまりICBM(大陸間弾道ミサイル)から取り出した第一段部分を、複数強引に束ねて、推力を向上させるというものです。これを元に、全く新しい大型ロケット事業を立ち上げます」
その言葉に会議室がざわめいた。特に、ロケット開発に人生を捧げてきた老技術者たちから、失笑が漏れる。
「馬鹿な」
「エンジンを束ねるだと?」
「クラスター化の悪夢を知らんのか!」
厳密に計算され、バランスの取れた一つのシステムとして完成しているロケットを、エンジンごとに分解し、ただ束ねるなどという発想は、本来であれば一笑に付されるべき乱暴なアイデアだった。
だが、セルゲイは構わなかった。彼の頭の中には、すでに完成した未来の姿が見えている。
「ただロケットを安く飛ばすのではありません! 付加価値をつけるのです!」
彼は黒板に、一つの無骨なロケットの絵を描いた。その中央には、見慣れたソユーズロケットが描かれている。だがその胴体の側面には、まるで獲物に食らいつくヤマ犬の群れのように、数本の細いロケット……ICBMを改造したブースターが、びっしりと取り付けられていた。
「ソユーズのストラップオン・ブースター方式は皆さんご存じでしょう。あれを、桁違いの規模で再構成するのです。ソユーズが四本のブースターで済ませていたものを、ICBM由来の小型ブースターを——乱暴に聞こえるのは承知しています——十本以上束ねる。単なるスケールアップではありません。コアとなるソユーズ上段の推力プロファイルを完全に再設計し、ブースター群が生む圧倒的な初期推力と組み合わせることで、ペイロードを従来の数倍に引き上げるのです」
彼は、自分でも興奮を抑えきれないように、黒板をチョークで叩いた。
「全てのエンジンが第一段として同時に点火し、離陸時に最大推力を生み出します。そして、燃料を使い果たしたブースターから、順次切り離していく……!」
会議室は、水を打ったように静まり返った。 誰もが、そのアイデアの持つ、恐るべき可能性と、そして狂気に気づいたからだ。
それは、繊細な西側のロケットとは対極にある、あまりにも乱暴な発想だった。精密な一個の芸術品を作るのではない。屈強で信頼性の高い農耕馬に、獰猛な狼の群れ(ICBM)を力づくで繋ぎ、巨大なマンモスを狩る。 成功すれば、西側のどのロケットよりも安価に、そして大重量のペイロードを、宇宙へ叩き込むことができる。
ヴィクトルは、黒板に描かれたその異様なロケットの姿を、ただ黙って見つめていた。 軍部が、自分たちの聖域であるICBMを切り刻んで束ねるなどという、冒涜的な計画を飲むかは、全くの別問題だ。 だが彼の頭脳は、この若き天才が提示した「力業」の持つ、底知れない価値を正確に弾き出していた。 これは、賭けだ。だが勝てば全てを覆せるだけの、巨大な賭けだった。
黒板に描かれた異形のロケットを睨みつけたまま、ヴィクトルは、その場の誰よりも冷静な男に問いかけた。
「将軍、どう思う」
ペトロフは、シェスタコフに聞いた。その声は、若者の夢物語を見るものではない。ロシア共和国を切り回す宰相の声だった。
「問題はあるだろう。特に回転だ。私のような素人でも知っているが、多数のロケットを束ねた際の推力制御は、極めて難しい。あの天才、セルゲイ・コロリョフですら、N1ロケットで失敗した。できると思うか?」
その問いは、会議室にいる全員の心を代弁していた。コロリョフ。ソビエト宇宙開発の父。その彼が生涯をかけて挑み、そして敗れた悪夢の再来。ヴィクトルはその最も痛い部分を、容赦なく突きつけたのだ。
シェスタコフは腕を組んだまま、しばらく黒板の図を睨みつけていた。やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。その声は将軍らしく重々しかったが、その内容は驚くほど緻密な分析に満ちていた。
「いくつか、条件があります。副長官閣下」
彼は、まず一本の指を立てた。
「第一に、制御CPUです。当時コロリョフが、いや世界中の誰もが手にできなかった高性能なCPUを、我々は今や使い捨てにできるほどコストダウンできています。これと我々がこの数年で培ってきたソフトウェアの力があれば、かつては不可能だった複雑な推力制御も、なんとかなるかもしれません」
次に、二本目の指を立てる。
「次の問題は開発コスト。この子はそこまで考えてはいませんが、エンジンを束ねるための新しい技術開発がコストを食ってしまっては、結局、個別に打ち上げる方がマシということになりかねません。国家の威信ではなく、あくまでビジネスとして成立させるための、厳密なコスト管理が必要です」
そして彼は最後の、三本目の指を立てた。その目は軍人らしく、最も現実的なリスクを見据えていた。
「最後に、気象条件と信頼性です。セルゲイが言っている構想は、機体の形状からして、かなり横風の影響を受けやすい。そして何より個々のブースター……つまりICBMの信頼性に、成否が左右されます。一基でも点火しない、あるいは暴走すれば、全てが終わりです。冷戦時代に大量生産されたロケットの中から、使えるものだけを厳密に調査し選別する、地道な作業が不可欠となります」
シェスタコフは、そこで一度言葉を切った。そして、ヴィクトルをまっすぐに見つめ返す。
「これらの条件をクリアできるのであれば……あるいは、この若造の夢物語も、現実になるやもしれません」
その言葉は、全面的な賛成ではなかった。だが、軍の最高指導者の一人による、限りなく肯定に近い、重い重いゴーサインだった。 軍縮で死蔵されていたミサイル群に、新たな命を吹き込む。それは、彼ら軍人にとっても、悪い話ではなかったのだ。
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