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第二部-1 小康状態

モスクワ、クレムリン。1992年、春。

雪解けの泥がまだクレムリンの石畳を濡らしていた。ジュネーブでの歴史的な合意から数ヶ月。世界が祝祭の熱狂から少しずつ冷めていく中、ロシアという巨大な国家の心臓部では新たな、そしてより静かな戦いが始まっていた。


会議室には新生ロシアの頭脳と権力が顔を揃えていた。

ジュネーブの英雄、ボリス・エリツォン大統領。彼の隣にはレニングラード派の頭脳であり、今やロシア経済の事実上の設計者であるセミョーン・アレクサンドロフ。そして古くからの党員でありながら、その実務能力を買われて閣内に残った数名の技術系閣僚たち。


そしてその末席に、ヴィクトル・ペトロフは座っていた。

彼の公式な役職は大統領府第一副長官。

閣僚ではないが大統領の最側近としてあらゆる省庁に横串を通す権限を持つ、黒衣の宰相にふさわしいポジションだった。


「情勢は膠着状態だ」


アレクサンドロフが分厚い報告書を指で叩きながら、乾いた声で言った。


「幸い、と言うべきか。ジュネーブで西側から引き出したつなぎ融資と軍縮で浮いた予算を、我々が計画した『保守的市場経済』のモデル地区へ集中的に投下した。ハイパーインフレという最悪の事態はかろうじて回避できている」


報告は続く。軍から放出された若い兵士たちはただ路頭に迷わせるのではなく、「再訓練」という名目のもと、レニングラード派が実験的に管理する国営工場や新たに設立されたコーポラティブ(協同組合)へと吸収されていた。彼らはまだ戸惑いながらも旋盤の代わりに新しい工作機械の使い方を学び、戦車の操縦桿の代わりにトラクターのハンドルを握り始めていた。若い連中だ。まだ未来を信じる力がある。


「だが」


アレクサンドロフの声が低く沈んだ。


「これはあくまで止血に過ぎん。外貨がなければ西側から新しい機械も、国民が求める最低限の消費財も輸入できない。このままでは我々は再び孤立する」

「その通りだ」


エリツォンが重々しく頷いた。


「国民は我慢している。だがその我慢にも限界がある。彼らに新しい時代の果実を少しでも早く見せてやらねばならん」


その場の全員がその一点を見つめていた。

なんとしてでも外貨を再度備蓄する必要がある。


「石油とガスだ」


古参のエネルギー担当大臣が口を開いた。


「シベリアのパイプラインをフル稼働させ、欧州への輸出を増やすしかない。それが最も手っ取り早くドルを稼ぐ道だ」


それはソビエト時代から続く最も安易で、そして最も確実な答えだった。だがその言葉を遮るように、ヴィクトルが静かに、しかしはっきりと口を開いた。


「それは未来を食い潰すだけです」


会議室の視線が一斉に彼に集まった。


「我々が今、資源を安売りすれば西側は喜んでそれを買うでしょう。ですがそれは彼らの経済圏に我々が『資源供給植民地』として組み込まれることを意味する。一度その構造が出来上がれば我々は永遠に彼らのルールで踊らされることになる。ルーブルの価値は下がり続け、国内産業は育たない。それはソビエトが辿った破滅の道そのものです」


「ではどうしろと言うのだ、ヴィクトル君!」


エネルギー大臣が机を叩いて苛立ちを露わにした。


「絵に描いた餅では国民の腹は膨れんのだぞ!」

「ええ。ですから売るものを変えるのです」


ヴィクトルは立ち上がると一枚の報告書をテーブルの中央に置いた。それは彼がこの数ヶ月、戦略ロケット軍の現実主義者たちを密かに突き合わせ、練り上げてきた極秘計画だった。


「我々が売るのは石油やガスではない。我々の最も優れた『技術』です。冷戦時代に大量生産され、軍縮で行き場を失った大陸間弾道ミサイル(ICBM)。これを転用し世界で最も安価で、最も信頼性の高い商業衛星打ち上げロケットとして西側の市場に売り込むのです」


それはまさにコロンブスの卵だった。

西側を恐怖させたロケット兵器を、外貨を稼ぐための「宅配便」へと変える。

部屋は驚きと懐疑の沈黙に包まれた。


エリツォンがその沈黙を破った。彼の目にあのスヴェルドロフスク時代のような好奇と興奮の光が宿っていた。良くも悪くもこの男は新しいもの、大胆なものに惹かれる。


「面白い……続けろ、ヴィクトル」

「はい、大統領」


ヴィクトルは真面目な顔をして説明を続けた。


「プロトン、ソユーズ、そして軍用のSS-18サタンの転用型。我々のロケットは西側のどのアリアンやデルタよりも安価に、そして高い信頼性で人工衛星を軌道に投入できます。これは冷戦が生んだ唯一の、そして最大の遺産です。西側の通信企業は喉から手が出るほどこの安価な打ち上げ手段を欲しがるでしょう。我々は彼らの市場に、彼らが無視できない価格で参入するのです」


その声は自信に満ちていた。閣僚たちがざわめき、感心したように頷く。アレクサンドロフでさえその老練な目にわずかな光を宿らせていた。


だが無論ヴィクトルの内心は全く別のことを考えていた。


(足りない……これでは全く足りない……)


この計画が軌道に乗り安定した外貨収入を生むまで、最低でも数年はかかる。契約交渉、西側基準に合わせた機体の改修、バイコヌールの整備。その間の運転資金がこの国にはないのだ。

これは未来への投資だ。だが今この瞬間を生き延びるための即効薬ではない。USドルが喉から手が出るほど欲しかった。たとえ1セントでも。


ヴィクトルは一同の興奮が冷めるのを待って、次の議題へと移った。彼の声のトーンがわずかに変わる。


「ですが皆様。我々が足元を固めている間にも世界は動いています。そしてこの新しい平和に対し、西側はある種のデモンストレーションを大々的に推し進めています」


彼は傍らに控えていたチェルノフに目配せした。

部屋の照明が落とされ、壁際に設置された旧式のスライド投影機が唸りを上げる。

壁一面に一枚の鮮やかなカラー写真が映し出された。


そこに浮かび上がったのは漆黒の宇宙空間に浮かぶ、白く輝くあまりにも未来的な建造物だった。

複雑に組み合わさったトラス構造、太陽光を浴びて黄金に輝く巨大なソーラーパネル。地球の青い輪郭を背景に、それはまるで人類の叡智を結集した宝石のように音もなく、そして圧倒的な存在感を放っていた。


国際宇宙ステーション(ISS)。まだ建設構想が発表されたばかりの、その完成予想図だった。


「……美しいな」


エリツォンが思わず呟いた。

だがヴィクトルはその光景を全く別の目で見ていた。


「ええ、美しいものです」


ヴィクトルの声には何の感傷もなかった。


「そしてこれは西側の技術とその圧倒的優位を見せつけるための、壮大なプロパガンダです。彼らが手に入れたバラ色の未来を彩るための、最高のデコレーションですよ」


その言葉に会議室の楽観的な空気は一瞬にして消え去った。

壁に映る美しい宇宙ステーションはもはや希望の象徴ではなかった。それはこのクレムリンの薄暗い会議室にいる彼らと西側との間に横たわる、絶望的なまでの格差を容赦なく突きつける巨大な証拠写真だった。


「彼らは我々抜きでこれを作ろうとしています。フリーダム・ステーションと名付け、西側の結束の象徴として。……ですが」


ヴィクトルはスライドの前に立ち、その白い輝きの中に自らの影を落とした。


「彼らには一つだけ足りないものがあります。そしてそれは我々だけが持っているものです」


彼は全員を見渡した。


「ミールです。我々が宇宙空間に浮かべている、人類唯一の長期滞在ステーションの実績と技術。彼らは金は持っていますが、経験がない。

……売りつけましょう。我々の技術ではなく、我々の『経験』を。彼らの美しい夢に我々の泥臭い現実を混ぜ込むのです。対等なパートナーとして」


それは単なる商売の話ではなかった。

西側が描く未来図の中にロシアという異物を強引にねじ込み、彼らの資金でロシアの宇宙産業を延命させるという起死回生の寄生戦略だった。


---


「これはチャンスでもあります」


ヴィクトルのその一言がクレムリンの会議室に漂う諦念を切り裂く。閣僚たちが訝しげに顔を上げた。


「国際共同、善良な友人。彼らが掲げる美辞麗句は我々が利用すべき最大の武器です。なによりこの計画には金がかかる。天文学的な打ち上げコストが」


彼は取り出した細い指示棒をまるで剣のように握りしめた。


「我々がかすめ取るのです。その予算を。なんとしてでも」


ヴィクトルは壁に歩み寄り、指示棒の先端で白く輝く宇宙ステーションの図を軽く叩いた。


「この計画はかつて我々やアメリカが構想していた宇宙ステーションを、規模において完全に凌駕しています。そしてこれを既存の彼らのロケット……つまりアトラスやタイタン、そしてあの複雑怪奇なスペースシャトルだけで打ち上げた場合、どうなるか」


チェルノフが再び投影機を操作する。

壁には簡単な資産表が映し出された。そこには西側諸国が見込んでいた「平和の配当」と、ISS計画の概算費用が並んでいる。楽観的に見ても平和の配当の莫大な金額がこの計画に流れ込むのは明確だった。


「彼らは軍縮した分だけ浮いた予算を、そのままこの宇宙の建設現場に注ぎ込むつもりです。ですが計算が甘い。スペースシャトルの運用コストは彼らの想定を遥かに超えて膨れ上がっています」


その瞬間ヴィクトルは手にした指示棒で、壁に映るISSの想像図の中心にこんこんと小突いた。


「連中のICBM転用型やシャトルではとてもまかなえないのです。彼らのシステムは経済性から逸脱している、貨物船として使うにはあまりに高価なのです」


かれは振り返って会議参加者の見回した。


「だからこそ我々の存在を思い出させるのです。

ルーブル安により我々の宇宙へのコストが、ドル換算ではただ同然にまで下がっているという事実を。

彼らがこの『デコレーション』を本気で宇宙に飾りたいのであれば、我々の安価で屈強なロケット……プロトンやソユーズという『宅配便』の助けなくしては絶対に完成しないという現実を、思い出させる必要があります


それは誇り高きロシアの宇宙技術を、西側の「下請け」として売り渡す屈辱的な提案にも聞こえた。

だがヴィクトルにはそれを超えた計算があった。

下請けでも構わない。金を巻き上げ、技術と人材を維持し、生き残る。

そしていつかその関係を逆転させるための、長い潜伏期間の始まりなのだと。


---


モスクワ郊外 宇宙飛行管理センター(ツープ)。1992年、夏。


ヴィクトルはソビエト宇宙開発の栄光と遺産が眠る建物の廊下を歩いていた。

壁にはガガーリンやテレシコワの英雄的な肖像画が掲げられているが、そのガラスは曇りつつあった

。


会議室には二つの時代の人間が同居していた。

戦略ロケット軍出身の、勲章を胸に飾ったいかめしい顔の老将軍たち。そしてソビエト最高の工科大学から集められた、まだ若い技術者や科学者たち。

ヴィクトルが断行した「軍縮と技術開発の融合」によって生まれた、奇妙で、しかし活気に満ちた空間だった。


「ヴィクトル・パーヴロヴィチ、お待ちしておりました」


ロスコスモスの新しい長官がヴィクトルを席へと案内する。彼はヴィクトルと同じレニングラード派から引き抜かれた、現実的な手腕を持つ男だ。


「早速だが本題に入ろう」


ヴィクトルは席に着くと同時に切り出した。


「ブラン計画についてだ。この計画は本日をもって完全に凍結する」


その一言に部屋の空気が凍りついた。特に人生の全てをこのソビエト版スペースシャトルに捧げてきた老技術者たちの顔が、絶望に歪む。


「な……なぜです、副長官閣下!」


一人が思わず立ち上がった。


「ブランは我々の技術の結晶です! あれこそが西側のシャトルと対等に渡り合える唯一の翼だ!」

「その翼を飛ばし続けるための燃料がこの国にはもうない」


ヴィクトルは説得するために声色を和らげた。


「年間数百億ルーブルを消費するあの計画はもはや過去の遺物だ。我々が今投資すべきは安価で信頼性の高いソユーズと、ICBMを転用した商業打ち上げビジネスということになる、諸君らにもまた計画への協力を求めたい」


ヴィクトルは続けた。その声にはわずかに違う響きが混じっていた。


「しかし諸君らの功績とその夢を、ただ博物館の埃の中に葬るつもりもない」


彼は会議室の全員を見渡した。


「一度だけブランを飛ばす。人を乗せて、宇宙へ。

ロシアの宇宙開発の一つの時代の終わりを告げる記念碑として。そして我々の技術力がまだ死んではいないことを、世界に示すためのデモンストレーションとしてだ」


それは非情な宣告の中に差し込まれた、一筋の光だった。

すべてではなくとも、一度だけでもブランを飛ばせる。その場の老技術者たちは不服を飲み込み、その言葉に頷いた。


その時ヴィクトルは会議室の隅に座る一人の青年の存在に気づいた。

場違いなほど若い。大学院生と言っても通用するだろう。周囲が軍人か長年国営企業に勤めてきた技術者であるのに対し、彼の服装はラフで、その佇まいは研究者のそれだった。

民主化されたとはいえ、ロシアの宇宙開発の中枢であるこの会議に学生のような若者が混じれるはずがない。異常な抜擢だ。


会議がひとまずの区切りを見せ、長官が次の議題に移ろうとした時、ヴィクトルはその流れを片手で制した。そしてまっすぐにその青年を見つめる。


「君」


部屋中の視線がその青年に集まった。彼は突然指名されたことに驚き、戸惑ったように立ち上がった。


「失礼だが、名前と所属は?」

「せ、セルゲイ・ヴォルコフです。モスクワ大学宇宙物理学部の……博士課程に」


その声はまだ若々しく、少し上ずっていた。


「ヴォルコフ君、か」


ヴィクトルはその名前を反芻した。


「君はなぜここにいる? ロスコスモスの正式な職員ではないだろう」


「は、はい。長官のご厚意で、オブザーバーとして……その、次世代の打ち上げシステムの研究の提言をさせていただきたく……」


セルゲイ・ヴォルコフ。その瞳は宇宙の謎に魅せられた者の、夢見るような光を宿していた。だが同時にその奥には、ヴィクトルが見過ごすことのできない鋭い知性の輝きがあった。

軍人たちが「過去の栄光」にしがみつく中で、この若者だけが「未来」を見ている。


ヴィクトルはかすかに口元を緩めた。


「結構。では聞かせてもらおうか、ヴォルコフ君。君が夢見る我々の新しい翼の話を」

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