砂漠の嵐-26:愚かさの果て
1991年3月。レバノン、ベイルート。かつての中東のパリも内戦の傷跡で荒廃していたが、情報の交差点としての機能は死んではいなかった。ある朝AFP通信の支局に差出人不明のVHSテープが届けられた。添えられたメモにはただ一言、アラビア語でこう記されていた。『砂漠の真実』
その夜。テープの映像は全世界のニュースネットワークを駆け巡った。
『……こちら11時のニュースです。湾岸戦争の終結から数週間、衝撃的な映像が公開されました』
キャスターの緊張した声と共に粗い暗視カメラの映像がブラウン管に映し出される。場所は不明。だが映っているのは紛れもなく最新鋭のM1A1エイブラムス戦車の車列だ。音声には米軍の無線などは入っていない。代わりに聞こえるのは、機械的で感情のないロシア語の指揮音声とガスタービンエンジンの甲高い唸り声。
『目標、捕捉。距離800』
『撃て(アゴーニ)』
轟音。画面の中央でM1エイブラムスの砲塔が内側からの爆発で天高く吹き飛ぶ。続いて側面をミサイルで貫かれ、松明のように炎上する別のM1。映像はその「無敵の戦車」が無残に破壊される瞬間を、残酷なまでの高解像度で捉え続けていた。
『これはイラク軍による撮影ではありません』
軍事アナリストが青ざめた顔で解説する。
『撮影者の位置、そして交戦距離。これは明らかにイラク軍が持たない高度な暗視装置と、未知の強力な兵器を使用した「第三者」による攻撃です』
映像の最後は燃え盛る米軍戦車の残骸を背に、砂塵の中へ消えていく謎の戦車のシルエットで終わっていた。そのシルエットは西側の軍事関係者が悪夢に見る形——T-80Uのそれだった。
この映像は西側社会に激震を走らせた。「完全勝利」と謳われた湾岸戦争の裏で米軍が一方的に蹂躙された事実。そしてソビエト製兵器の恐るべき性能。ペンタゴンは即座に「イラク軍のプロパガンダ映像であり、フェイクである」と否定声明を出した。
だがその否定の必死さが、逆に映像の信憑性を高める結果となった。軍需産業の株価は乱高下し、中東やアフリカのバイヤーたちはこぞってモスクワの武器輸出公社に問い合わせの電話をかけた。「あの映像の戦車をくれ」と。
GRUによる情報操作だった。彼らは米軍の無線を傍受して流すような下手な真似はしなかった。それは偽造が容易だからだ。代わりに自軍の圧倒的な「破壊の証拠」を突きつけることで、言葉よりも雄弁な恐怖を世界に植え付けたのだ。
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1991年3月。モスクワ、クレムリン。窓の外では雪解けの水が軒先を滴り落ち、遅い春の訪れを告げていた。だが書記長執務室の空気はシベリアの永久凍土のように冷え切っていた。
ミハイル・ゴルバノフは執務机の上にある白い受話器——ワシントンとのホットラインを、まるで氷の塊であるかのように握りしめていた。受話器の向こうから聞こえてくるのは、これまで「親愛なるミハイル」と呼びかけてきた友人の声ではなかった。それは裏切られた怒りと容赦のない最後通牒を告げる、アメリカ合衆国大統領の事務的な声だった。
『……残念だが、現状ではロンドンで開催されるG7サミットへの招待は無期限の延期とせざるを得ない』
通訳を介さずともその声の温度が伝わってくるようだった。
「ジョージ、待ってくれ。あれは誤解だ。現在調査中だが、過激なイラク軍の一部が……」
『ミハイル、我々は友人だったはずだ』
大統領の声がゴルバノフの言い訳を遮った。
『だがあの映像を見た世界中の有権者は、もはやソビエトをパートナーとは見なさない。T-80U戦車が我々の若者を焼き殺す映像が毎晩ニュースで流れているんだ。この状況で君と握手などすれば、私の政権が持たない』
続いて決定的な一撃が放たれた。
『STARTの調印式も一時見送らせてもらう。信頼関係が崩壊した状態で核軍縮など議論できるはずもない。……以上だ』
プツリ、と乾いた音がして回線が切れた。ゴルバノフはしばらくの間、ツー、ツー、という電子音を呆然と聞いていた。受話器を置く手が震え、カチャリと音を立ててクレードルに収まらなかった。
「……そんな、馬鹿な」
彼は執務室の豪奢な椅子に深く沈み込んだ。数年かけて積み上げてきたものが、マルタ会談での握手も、ベルリンの壁崩壊後の欧州共通の家構想も、すべてがガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「なぜだ……。私はただ平和を望んだだけなのに」
彼は本気だった。貧しく閉鎖的で、暴力の臭いがするこの国を、西側諸国と対等に渡り合える明るく自由な文明国に変えたかった。そのためにグラスノスチを進め、ペレストロイカの旗を振った。西側からの経済支援があれば国民生活は向上し、民主的な社会主義が実現するはずだった。
だがその夢は今、砂漠の熱砂の中で焼かれ鉄屑と化した。
扉がノックされ、側近が青ざめた顔で入ってきた。その手には一本のビデオテープが握られている。
「書記長同志……。AFPが放送した映像のオリジナルと思われるテープが入手できました」
「……見せろ」
ゴルバノフは呻くように言った。側近がデッキにテープを入れ、再生ボタンを押す。ブラウン管に映し出されたのは、地獄だった。
暗視カメラ特有の緑がかった画面の中、ソビエト製戦車T-80Uが獲物を狩る猛獣のような俊敏さで砂漠を駆けている。感情の欠片もないロシア語の指揮音声。そして米軍のM1戦車が次々と爆発し、砲塔が吹き飛ぶ瞬間。
「うッ……」
ゴルバノフは口元を押さえた。野蛮だ。あまりにも野蛮で残酷な光景だった。彼が目指したのは「人間の顔をした社会主義」だったはずだ。だが画面の中で行われているのは、冷酷な計算に基づいた一方的な殺戮だった。そしてその殺戮を行っているのは、彼が最高司令官として統帥しているはずのソビエト連邦軍の兵士たちだった。
「誰だ……」
ゴルバノフは震える声で呟いた。
「誰がこんなことをやらせた!」
彼は受話器をひったくり、国防大臣への直通回線のボタンを叩いた。ドミトリー・ヤトフ。あの解任通知を踏みつけた頑迷な老元帥を問い詰め、捕縛し、この暴挙に関わった全ての将校を軍法会議にかけてやる。そうすればまだ西側への弁明は立つかもしれない。
呼び出し音が鳴る。一度、二度、三度。誰も出ない。国防省の中枢に繋がるはずのホットラインが虚しく鳴り響くだけだ。
「……なぜ出ない! 国防大臣はどうした!」
ようやく誰かが受話器を取った。だがそれはヤトフ本人ではなかった。
『本日はヤトフ元帥は不在にしております』
若く事務的な副官の声だった。
「不在だと!? 私は書記長だぞ! 今すぐ呼び戻せ!」
『申し訳ありません。元帥は現在キエフ軍管区での演習視察に向かわれており、連絡がつきません』
嘘だ。キエフでの演習など予定されていない。これは明白な「居留守」であり、最高指導者に対する「拒絶」だった。
「き、貴様ら……! これは命令だ!」
『回線状態が悪いようです。失礼します』
ガチャン。一方的に通話が切られた。
ゴルバノフは受話器を握りしめたまま凍りついた。次にKGB議長に電話をかける。だが返ってきたのは「現在、当該情報の真偽を確認中です。確認が取れ次第ご報告します」という、のらりくらりとした官僚的な回答だけだった。
誰も動かない。誰も書記長の命令を聞こうとしない。彼が激怒しようが解任を叫ぼうが、受話器の向こうには分厚い壁のような沈黙と冷ややかな無視があるだけだった。
彼は気づいてしまった。自分のデスクに並ぶ無数の電話機は、世界を動かすための道具ではない。もはやどこにも繋がっていないただのプラスチックの「おもちゃ」なのだと。
「私は……間違っていたのか?」
ゴルバノフは力なく椅子に崩れ落ちた。理想は正しかったはずだ。核戦争の恐怖がない世界。自由な言論。豊かな生活。だが彼にはその理想を実現するための「泥を被る覚悟」も、反対派をねじ伏せる「実力」も足りなかった。
ヴィクトル・ペトロフのような「顔のない官僚」たちが汚れた手で国家という巨大な機械を回している現実を、彼は見て見ぬふりをしてきた。高潔な理想を語る自分の足元で、彼らが血と泥にまみれながら支えていた土台が今、彼を見限って崩れ去ろうとしている。
執務室に西日が差し込んできた。壁に飾られたレーニンの肖像画が夕日を受けて赤く染まる。その隣にはガラスケースに入ったノーベル平和賞のメダルが飾られている。だが今の彼にはその金色の輝きが、ひどく虚しく、そして滑稽に見えた。
「失礼します、ミハイル・セルゲーエヴィチ」
秘書が恐る恐る入ってきた。
「次のスケジュールの確認ですが……モスクワ市内の第45学校への訪問のお時間です」
それは何の政治的意味もない、子供たちに笑顔で手を振るだけの儀礼的な公務だった。かつてはそんな公務を軽視していた。もっと重要な世界を変える仕事があると思っていたからだ。だが今、彼に残された仕事はそれしかなかった。
「……ああ、行こう」
ゴルバノフはゆっくりと立ち上がった。その背中はかつての覇気を完全に失い、ただの疲れた初老の男のように小さく見えた。
「私にできるのは微笑んで手を振ることだけだ」
彼はよろめくような足取りで執務室を出ていった。残されたテレビ画面の中ではT-80Uが今も米軍戦車を燃やし続けている。それが、彼が否定し続け、しかし皮肉にも今のロシアの命脈を繋ぎ止めている「現実」だった。
重厚なドアが閉まる音と共に、ソビエト連邦という巨大な硝子の城に決定的な亀裂が入った。
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