砂漠の嵐-25:帰還
クレムリン、書記長執務室。
重厚なドアが閉ざされたその部屋には怒号が反響していた。
「狂っている! 君たちは完全に狂っている!」
ミハイル・ゴルバノフ書記長は執務机を拳で叩きつけた。
彼の顔は紅潮し、額には青筋が浮き上がっている。
机の上にはワシントンからのホットラインの受話器が、まるで忌まわしい蛇のように転がっていた。
先ほどまで米大統領からの、外交辞令をかなぐり捨てた激しい抗議を受けていたのだ。
「米軍大隊が壊滅しただと!? 顧問団の暴走? そんな言い訳が通じると思っているのか!」
ゴルバノフは部屋の中央に直立不動で立つ男、ドミトリー・ヤトフ国防大臣を指差した。
「西側からの経済支援は白紙だ! G7への招待も軍縮交渉も、全てが水泡に帰した! 君たちの愚かな火遊びがこの国を殺したのだぞ! 分かっているのか!」
ヤトフは微動だにしなかった。その表情は能面のように冷たく、ただヒステリックに叫ぶ最高指導者をどこか遠い目で見つめていた。
彼には見えていた。ゴルバノフが嘆いているのは国の未来ではない。彼自身が築き上げてきた「西側との友情」という名の個人的なレガシーが崩壊したことへの嘆きだ。
「……元帥。何か言ったらどうだ」
ゴルバノフはヤトフの沈黙に耐えかねたように声を荒げた。
「申し開きはありません、書記長同志」
ヤトフは低く重々しい声で答えた。
「現場の部隊が米軍の挑発に対し、自衛的な措置を取ったまでです。我々の兵器の優秀さが証明されたことは喜ばしいことでは?」
「自衛だと!? 砂漠の真ん中で最新鋭戦車が待ち伏せすることがか!」
ゴルバノフは吐き捨てるように言った。
彼は引き出しから一枚の書類を取り出し、ペンを走らせた。
解任命令書。
「もういい。君には任せておけん」
ゴルバノフはその紙をヤトフの足元に投げ捨てた。
「ドミトリー・ヤトフ元帥。君を国防大臣の任から解く。直ちに軍を正常化し、関与した将校を全員軍法会議にかけろ。これは命令だ」
紙切れが床に落ちる乾いた音が響いた。だがヤトフはそれを拾おうとはしなかった。
彼はゆっくりと顔を上げ、ゴルバノフの目を正面から見据えた。
「……できますかな、書記長」
その声は氷点下の冷たさだった。
「な、なに……?」
「私を解任し、軍を『正常化』する。そんな力が今のあなたに残っているとお思いですか」
ヤトフの瞳に剣呑な光が宿った。
それは忠実な軍人の目ではない。獲物の喉笛を見定めた狼の目だった。
「党はあなたの弱腰外交に愛想を尽かしている。人民は空っぽの棚とハイパーインフレを招いたあなたの政策を呪っている。そして今、軍は……米軍を破ったという高揚感の中で、かつてないほど結束している」
ヤトフは一歩前へ出た。
その威圧感にゴルバノフは思わず椅子に座り込み、後ずさりした。
「もし今、私がこの部屋を出て『書記長が英雄たちを処罰しようとしている』と告げれば、どうなると思いますか? 軍は誰の命令に従うでしょうか」
「き、君は……私を脅迫するのか!」
「事実を申し上げているだけです」
ヤトフは軍帽を被り直した。
「統帥権とは紙切れの上に存在するものではありません。信頼と力の上に存在するものです。あなたにはもう、そのどちらもない」
老元帥は床に落ちた解任命令書を軍靴で踏みつけ、踵を返した。
敬礼はなかった。
「失礼します。忙しいのでな」
重いドアが閉まる。執務室に残されたゴルバノフは震える手で机の端を掴んだ。
彼は理解した。自分が裸の王様ですらなく、もはや玉座に座る幻影に過ぎないことを。クレムリンの主は実質的に交代したのだ。
数日後、モスクワ郊外、チカロフスキー空軍基地。
凍てつくような冬の闇の中、一台の巨大な輸送機Il-76が重い着陸音を響かせて滑走路に降り立った。
タラップが降りる。
そこから吐き出されたのは数日前まで砂漠の熱砂にまみれていた男たちだった。
彼らは手ぶらだった。世界最強の戦車T-80Uも最新鋭の対空車両も、そこにはない。あるのは煤と油と硝煙の臭いが染み付いた野戦服と、彼らの生身の体だけだった。
ウラジーミル・イワノフ中佐は列の先頭でタラップを降り、滑走路の脇に停められた黒塗りの公用車へと歩み寄った。車のドアが開き、ドミトリー・ヤトフ元帥が姿を現す。
イワノフは直立不動の姿勢を取り、鋼のような表情で敬礼した。
その顔には勝利の驕りも生還の喜びもなかった。ただ任務を完遂した職業軍人の、何も映さない無表情だけが張り付いていた。
「報告します、元帥同志」
イワノフの声は夜風よりも冷たかった。
「作戦目標、完遂。米陸軍機甲大隊を壊滅させ、敵の航空戦力にも打撃を与えました。……ですが装備は全て失いました」
「置いてきたか」
ヤトフは短く問うた。
「はっ。イラン国境警備隊との『合意』通りに」
イワノフは悔しさを押し殺すように報告を続けた。
撤収の条件。それは持ち込んだ最新鋭兵器の全てをイラン側に引き渡すことだった。
イラン政府はこの「武装解除」を対外的な——特にゴルバノフと西側に対する——言い訳として利用する。『我が国は国境を侵犯したソ連軍部隊を武装解除し、装備を没収した上で人員のみを追放した』そう発表することで、イランはソ連への義理立てと米軍への牽制、そして何より最新鋭のソ連製兵器という莫大な実利を手に入れたのだ。
「虎の子のT-80Uをムラー共にくれてやるとはな」
ヤトフは苦々しく呟いたが、すぐにその表情を引き締めた。
「だが安いものだ。君たちの命とあの戦果に比べればな」
ヤトフはイワノフの肩に手を置いた。
「よくやった、中佐。君は兄の無念を晴らし、そして祖国の兵器が錆びついていないことを世界に証明した」
「……恐縮です」
イワノフの表情がわずかに緩んだ。だがその瞳の奥にある暗い炎は消えていない。
彼は知っている。砂漠で燃やした鉄の塊は巨大な敵のほんの一部に過ぎないことを。
「休め。これからの嵐に備えてな」
「はっ」
イワノフと部下たちを乗せたバスが闇の中へと消えていく。ヤトフは一人滑走路に残り、冬の星空を見上げた。
クレムリンでは今頃ゴルバノフ書記長が、怒り狂うワシントンとロンドンからのホットラインに追われ、悲鳴を上げているだろう。
西側諸国はソ連軍の「暴走」を激しく非難している。経済支援の停止、外交関係の見直し。ゴルバノフが築き上げてきた「新思考外交」の砂上の楼閣は砂漠の風と共に崩れ去った。
だが軍は。
そしてエリツォン率いるロシア共和国は。
この「暴走」を密かに、しかし熱狂的に支持していた。
「よくぞやった」「アメリカに一泡吹かせた」
抑圧されていた愛国心とプライドがこの一件で爆発的に回帰しつつある。
「……国が割れたな」
ヤトフは白い息と共に呟いた。表向きの政府であるゴルバノフと、実力を保持する軍部・保守派。両者の亀裂はもはや修復不可能だ。ゴルバノフは西側に追い詰められ、国内での求心力を完全に失った。一方で軍は統帥権を失った書記長をもはや主とは認めていない。
ソビエト連邦は政治的に完全に分かたれた。
あとは誰が、いつ引導を渡すか。
その最後の幕引きの時が刻一刻と迫っていた。
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