砂漠の嵐 -12:アフガンツィ
「革命広場」駅の重厚なアーチを抜け、ヴィタリーは地上へと躍り出た。 瞬間、肺を焦がすような地下の密室の熱気が、冬のモスクワの刃のような冷気に塗り替えられる。 鉛色の空から舞う、乾いた雪交じりの風。 彼は、吸い込んだ冷気が気管支を焼き、喉の奥で鉄の味に変わるのを感じた。
地下鉄での撹乱は、一時的な時間稼ぎにはなった。 乗り換えの群衆、身を挺してドアを塞いだスペツナズの男。それらは数分、あるいは数十秒の猶予を彼に与えたに過ぎない。 KGBの無線網は、すでに地上の包囲網を狭め、主要な交差点を封鎖しつつあるはずだ。
ヴィタリーは、大通りを避け、迷わず路地裏へと飛び込んだ。 整備されず、泥と雪が混じり合ったぬかるみが、彼の革靴を掴み、体力を削ぎ落とそうとする。
モスクワの裏庭。 そこは、表通りの社会主義的な威容とは裏腹の、剥き出しの生活空間だ。崩れかけた煉瓦の壁、乱雑に干された凍りついた洗濯物、錆びついた遊具。 華やかなプロパガンダの裏にある、この国の疲弊した内臓のような場所を、ヴィタリーは疾走した。
「あそこだ! 路地に入ったぞ!」
背後から、鋭い声が響く。 振り返る余裕はない。だが、足音の数とリズムで分かる。 三人。いや、四人。 彼らは銃を持ちながら発砲してこない。威嚇射撃すらない。 それが、ヴィタリーを何よりも恐怖させた。
(殺す気がない……)
つまり、「完落ち」狙いだ。 この封筒の中身ごと、彼をルビャンカ(KGB本部)の地下独房へ引きずり込み、薬物と拷問で精神を破壊し、誰が、何を、誰に渡そうとしたのか、その全てを自白させるつもりなのだ。 それは、死よりも遥かに恐ろしい、人格と魂の解体を意味していた。
ヴィタリーは、アパートの通用口を抜け、ゴミ集積場の横を駆け抜ける。 脇腹に、灼熱したナイフを突き立てられたような激痛が走る。 呼吸はヒューヒューと壊れたふいごのように鳴り、心臓は肋骨を内側から叩き割らんばかりに早鐘を打っている。
限界だった。肉体は悲鳴を上げ、足を止めろと脳に信号を送り続けている。 だが、彼の右手だけは、上着の懐にある封筒を、万力のような力で鷲掴みにしていた。
彼は知っていた。 あの慎重なヤトフ元帥が、法を犯してまで動いたこと。 そして、GRUが組織の総力を挙げて、自分という一介の「運び屋」のために、スペツナズを捨て駒のように配置したこと。 地下鉄で自分を助けたあの巨漢は、今頃KGBに拘束され、終わりのない尋問を受けているだろう。
(これは、ただの情報じゃない……)
薄っぺらい紙切れが入っただけの封筒。 だが、その重さは、国家そのもののようだった。 これをKGBに奪われれば、あるいは自分が捕まれば、祖国が終わる。 なぜだかは分からない。だが、諜報員としての本能がそう告げていた。 この封筒の中には、瀕死のソビエト連邦が生き残るための、最後の「希望」か、あるいは劇薬のような「毒薬」が入っているのだ。
「止まれ! 逃げ場はないぞ!」
追っ手の声が、すぐ後ろに迫る。 肉薄してくる気配。革のコートが擦れる音さえ聞こえる距離。 足がもつれる。視界が明滅する。
(渡さなければ……)
ヴィタリーは、乾いた口の中の唾を飲み込み、最後の力を振り絞って、目の前の朽ちかけた煉瓦塀に手をかけた。 無様な姿で、泥にまみれながら、必死に身体を引き上げる。 その先には、約束の場所が――GRUが用意したセーフハウスへと続く、迷路のような路地があるはずだ。
祖国の運命が、今、名もなき男の震える脚に託されていた。
壁を乗り越え、地面に転がり落ちるように着地したヴィタリーの視界に、目的の建物が飛び込んできた。古びた赤レンガ造りの倉庫。表向きは鉄道省の除雪機材保管所だが、その地下深くにはGRUのセーフハウスへの入り口がある。
あと、五十メートル。
「ここまでだ」
絶望的なほど冷静な声が、前方から響いた。ヴィタリーが顔を上げると、倉庫の入り口を塞ぐように、革コートの男たちが三名、仁王立ちしていた。振り返れば、追跡してきた男たちが、壁をよじのぼってきている。
挟み撃ち。包囲網だった。KGBは、彼がただ逃げているのではなく、「どこへ向かおうとしているか」を最初から予測し、先回りしていたのだ。
「終わったな」
前方の男が、酷薄な笑みを浮かべて一歩踏み出す。ヴィタリーは、懐の封筒を握りしめた。燃やす時間はない。飲み込むには分厚すぎる。ここまでか。国家の存亡をかけた連鎖は、この薄汚れた路地で、名もなき泥として終わるのか。
その時だった。
キキィィッ――!!!
耳をつんざくようなブレーキ音と共に、一台のボロボロのZIL-130トラックが、路地の横道から猛スピードで突っ込んできた。雪と泥を跳ね上げ、制御不能に見えるその数トンの鉄塊は、ドリフトしながらKGBの男たちに向かって突進する。彼らが悲鳴を上げ、倉庫の入り口から飛び退くのと同時、トラックはわずかな隙間に強引に車体をねじ込ませ、急停車した。
「なっ……!?」
トラックの巨大な荷台が、壁のように立ちはだかり、追っ手たちの視界と射線を完全に遮断した。
運転席の窓が、乱暴に開く。そこから顔を出したのは、無精髭を生やした、痩せこけた男だった。その目は、虚ろだった。だが、その虚ろさの奥底には、人間の理性を焼き尽くした後に残る、冷たく、底知れぬ狂気が渦巻いていた。
アフガン帰り。ソ連が泥沼の山岳戦で使い潰し、心身を壊して帰還させた、忘れられた兵士たち。彼らは地獄を見てきた。そして、平和なモスクワにおいても、その瞳の奥にまだ戦場を飼っていた。
KGBの男たちが、反射的に懐のマカロフに手を伸ばす。彼らは知っている。この手合いが、最も予測不能で危険な存在であることを。
「貴様! どけ!」
運転手の男は、KGBの怒声など聞こえないかのように、ゆっくりと、懐に手を入れた。その動作は、あまりにもスムーズで、そして殺気に満ちていた。まるで、使い慣れたホルスターから拳銃を抜くような、洗練された殺人者の挙動。
KGBの精鋭たちが、一瞬、息を呑んで硬直する。撃たれる――!
だが、男の手が懐から引き抜いたのは、銃ではなかった。クシャクシャになった、ソ連で最も安く、最もきついタバコ『ベロモルカナル』の紙箱だった。
男は、KGBの男たちの恐怖を嘲笑うように、一本を取り出し、口にくわえた。そして、オイルライターの火を点けながら、紫煙と共に、たった一言だけ呟いた。
「……道が、狭ぇな」
その一瞬の狂気が、KGBの時間を止めた。男は、ヴィタリーの方を向くことなく、ただドアを指でトントンと叩いた。――行け。
ヴィタリーは、弾かれたように駆け出した。トラックの巨体が作り出した、一瞬の死角。KGBたちが「ただの狂った運転手」に気を取られている、コンマ数秒の隙。
彼は、倉庫の通用口へと頭から滑り込んだ。重い鉄扉を内側から叩きつけ、鋼鉄の閂を下ろす。
「くそっ! どけ! どかせこの鉄屑を!」
外で、KGBの男たちの罵声と、トラックのバンパーを蹴り上げる音が聞こえる。だが、もう遅い。あのアフガン帰りは、きっと悠々とタバコを吸い終わるまで、テコでも動かないだろう。彼にとって、KGBの怒鳴り声など、カンダハルの銃声に比べれば子守唄のようなものだ。
ヴィタリーは、冷たいコンクリートの床に背中を預け、ズルズルと崩れ落ちた。心臓が破裂しそうだった。肺が悲鳴を上げている。だが、懐の封筒は、まだ温かい。守り切った。
彼は、震える手で、薄暗い倉庫の天井を仰いだ。ヤトフ元帥、元帥を動かした名も知らぬ誰か、イランの外交官、地下鉄の巨漢、そして名もなきアフガン帰り。狂気と執念が繋いだバトンは、今、確かにゴールへと届いたのだ。
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