砂漠の嵐 -11:モスクワ地下鉄
ヴィタリーは地下鉄駅の重厚な木の扉を肩でこじ開けるようにして構内に雪崩れ込んだ。
ムワッとした熱気。古びた潤滑油とオゾンの匂い。そして濡れたウールのコートと数百人の市民が放つ、生活の疲労が凝縮されたような湿った息遣い。改札口には制服を着た無気力な監視員の老婆が座っていた。ヴィタリーは5カペイカ硬貨を探すふりはしなかった。上着のポケットから期限切れの鉄道省の身分証を一瞬だけちらつかせ、老婆が老眼鏡の位置を直そうとしている隙にゲートを強引に突破した。
背後で咎めるような声が上がったが、すぐに怒号にかき消された。追っ手のKGBたちがさらに乱暴にゲートを乗り越えてきたからだ。
長い、長いエスカレーター。スターリンが「人民の宮殿」として築き上げ、有事には巨大な核シェルターとなるこの地下要塞の底へ向かって、ヴィタリーは駆け下りた。左側を駆け下りながらふと見上げると、エスカレーターの頂上に革コートの男たちの姿が見えた。彼らは一般客を押しのけ、手すりを滑り降りるような勢いで迫ってくる。
プラットホームにたどり着くと、そこは灰色の海だった。ラッシュアワーでもないのにホームは人で溢れ返っている。燃料不足で地上のバスが減便され、誰もが地下鉄に殺到しているのだ。
轟音と共に青い車体の列車が滑り込んでくる。ドアが開くと同時に、吐き出される人波と乗り込もうとする人波が衝突し、怒号が飛び交う。ヴィタリーはその混沌を歓迎した。彼は体をねじ込み、満員電車の中へと強引に割り込んだ。肋骨が軋むほどの圧力。だがこれこそが最高の盾だ。
「どけ! 道を空けろ!」
ホームの階段からよく通る怒鳴り声が響いた。KGBだ。彼らはもう隠密性をかなぐり捨てていた。男の一人が頭上の空間に向けて赤い手帳を高々と掲げた。金の縁取りに、剣と盾の紋章。国家保安委員会の身分証。
かつてブレジネフの安定した時代、彼らは「我らがチェキスト」としてある種の敬意と親愛を集める存在でもあった。町の駐在警官のように秩序を守り、西側のスパイや反社会的な分子から市民の平穏な生活を守るエリートたち。彼らが声を上げれば、市民は頼もしさと共に進んで協力を惜しまなかったはずだ。
「国家保安委員会だ! 捜査中である! そのドアを閉めるな!」
男は叫びながら群衆を乱暴に掻き分けた。その瞬間、ホームの空気が変わった。
人々はKGBの紋章を見て確かに道を空けた。だがその目にあるのは、秩序の守護者に対する敬意でも畏怖ですらない。まるで泥のついた靴で家に上がり込んできた酔っ払いや忌まわしい疫病神を見るような、嫌悪と諦めが混じった冷たい目だった。
崩れつつある国家において、特権を振りかざす治安機関はもはや市民を守る存在ではない。物資を横流しし、自分たちのささやかな生活の動線を乱すただの暴力装置に成り下がっていたのだ。
「チッ、委員会かよ……」
「また誰かを連行するのか。忙しいこった」
誰かの舌打ちが聞こえた。そのわずかな反感の空気が人々の動きを鈍らせた。彼らは道を空けるふりをして微妙に足を出し、肩を入れ、追っ手の進路を無意識のうちに阻んだ。それは崩壊前夜のソビエト社会に蔓延する、権力への静かなるサボタージュだった。
「発車するぞ! ドア閉め!」
運転士のアナウンスが響く。運転士はホームで叫ぶ男がKGBであることに気づいていた。だが彼はブレーキを解除した。今のモスクワ地下鉄は過密ダイヤと整備不良で綱渡りの運行を強いられている。ここで数分でも止まれば、後続の列車がトンネル内で立ち往生し、信号システムの不備による追突事故さえ起きかねない。彼にとっての恐怖は、KGBの怒鳴り声よりも背後から迫る数百トンの鉄塊の衝突だった。
プシューッ、という音と共にドアが閉まり始める。KGBの男が人波を強引に突破し、閉まりかけたドアの隙間に革靴をねじ込んだ。その目は血走り、ヴィタリーを完全に捉えていた。
「降りろ! 貴様!」
男の手がドアの隙間から伸びてくる。ヴィタリーはすし詰めの車内で身動きが取れない。万事休すか。
その時だった。ドアの脇に立っていた、大きな旅行鞄を持った巨漢の男が列車の揺れによろめいたふりをして、ドアの隙間に背中から倒れ込んだ。
「おっと、すまねえ!」
巨漢はKGBの男の手を押し潰すようにしてドアの隙間を埋めた。
「痛っ! 貴様、公務執行妨害で……!」
KGBの男が悲鳴を上げ、反射的に手を引っ込める。その一瞬の隙にドアは無慈悲に閉まった。
ドン、という鈍い音。巨漢の男は何食わぬ顔で体勢を立て直すと、窓の外で悔し紛れにドアを叩き遠ざかっていくKGBの男たちに大げさに肩をすくめてみせた。
列車が動き出す。加速するGの中でヴィタリーはその巨漢の男を見た。薄汚れた労働者の服。無精髭。だがその耳の形はサンボかレスリングの有段者のように潰れており、その瞳は鋭く澄んでいた。
男はヴィタリーとは目を合わせなかった。ただ混雑に紛れて、小さく誰にも聞こえない声で呟いた。
「……次は、『革命広場』駅だ。反対ホームから駅の外へ」
潰れた耳。澄んだ瞳。この男が何者か、ヴィタリーには分かった。この地下迷宮にはKGBだけではない、もう一つの力が息づいている。
ヴィタリーは無言で小さく頷くと、懐の封筒を抱く手に力を込めた。列車は轟音を立てて暗黒のトンネルへと吸い込まれていった。
更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。




