砂漠の嵐 -10:逃亡
ヴィタリーは、公園の砂利道を蹴った。革靴の底が、凍りかけた地面を噛む感触。懐に入れた封筒は、紙切れ数枚の物理的な重さしかないはずだった。だが、今の彼には、それが劣化ウランの塊のように重く、熱く感じられた。
それは、国家への裏切りを証明する絞首刑のロープであり、同時に国家を救うための唯一の鍵でもあった。
だが、彼はあえて一旦走る速度を落とした。公園の出口付近には、配給のパンを求める市民の長い、陰鬱な行列ができている。彼はその灰色の人波に、計算された速度で滑り込んだ。全力で走り続ければ、それ自体が標識になる。労働者の猫背を装いながら、その視線だけは鋭利な刃物のように周囲を切り取っていた。
(……空気が、変わった)
背筋に、氷のような違和感が突き刺さる。公園のベンチで新聞を読んでいた男が、記事に目を落としたまま、新聞を畳むタイミングを計っている。恋人同士を装っていたカップルが、愛を語らうふりをしながら、不自然な位置取りで出口の方へ回り込んでいる。清掃員が、箒を持つ手を止め、襟元のマイクに何かを囁いた。
KGB。やはり、網は張られていた。あのチャイカの芝居は、KGBへの狼煙でもあったということだ。
ヴィタリーは、配給の列に紛れたまま歩調を崩さなかった。心臓は早鐘を打っている。だが足は、訓練が叩き込んだ一定のリズムを刻み続けていた。周囲を観察する。出口は二つ。正面と、北側の植え込みの切れ目。正面は——駄目だ。
背後の男が動いた気配がした。怒声はない。プロは無駄に吠えない。ただ、無言の圧力が背後から迫り、左右から退路が塞がれていく感覚。「箱」に入れられかけている。
ヴィタリーは、配給の列を強引に突き抜けた。「おい、割り込みか!」「ふざけるな!」罵声を浴びせられる。市民の怒りが騒音となり、一瞬だけKGBの連携を乱す。その隙に、彼は公園を出て、モスクワの大通りへと躍り出た。
1990年のモスクワ。灰色の空の下、古びたスターリン様式の建物が、巨大な墓標のように立ち並ぶ。歩道は、疲れ切った市民たちで溢れていた。誰もが足元を見つめ、明日の生活への不安を抱えて歩いている。ヴィタリーは、その死んだような空気の中を、心臓の鼓動だけを早鐘のように打ち鳴らしながら進んだ。
彼は、大通りの向こうにあるバス停を一瞥した。トロリーバスが、架線から青白い火花を散らしながら近づいてくる。あれに飛び乗れば、人混みに紛れて……。
だが、その希望は一瞬で砕かれた。
バス停の脇、新聞スタンドの影。質の良い革のコートを着た二人の男が、バスを待つ市民の列からわずかに離れて立っていた。直立不動の姿勢。ポケットに突っ込んだままの手。そして、獲物を待つ捕食者特有の、感情のない冷たい目。KGB第二総局。
彼らは、ヴィタリーがバス停に向かう未来を先読みし、すでに「蓋」をしていた。
(バスは駄目だ。乗った瞬間に、鉄の棺桶になる)
ヴィタリーは、バス停へ向かう足を、不自然にならないギリギリの角度で曲げた。路面電車も、タクシーも使えない。地上の交通網は、すでに「機関」の庭だ。
その足が横断歩道に向かった瞬間、男たちの目が動いた。ヴィタリーは意を決して車道に飛び出した。クラクションが鳴り、トラックが急ブレーキをかける。その混乱に紛れて、大通りの反対側へ渡る。
その不自然な横断が、決定的だった。
「確保ッ!」
男たちが、コートの下からマカロフ拳銃を抜きかける動作を見せ、人混みをかき分けて走り出した。市民たちが悲鳴を上げて左右に割れる。静かな包囲は終わり、なりふり構わぬ狩りが始まった。
ヴィタリーは、踵を返した。目指す先は一つしかない。地上は塞がれた。ならば、潜るしかない。スターリンが建設した、有事には核シェルターともなる巨大な地下迷宮。
モスクワ地下鉄。
「逃がすな! 追え!」
KGBの追っ手たちが、猟犬のように彼を追い立てる。ヴィタリーは、肺が焼けるような痛みを覚えながら、地下鉄駅の重厚な入り口へと向かって、全速力で駆け出した。
灰色の都市の底へ。光の届かない、鋼鉄と大理石の迷宮へと、彼は身を投げた。
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