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砂漠の嵐 -9:中立国

翌日、同じ時間。


ヴィタリーは、公園のベンチでだらしなく座っていた。昨日までの、獲物を待つ狩人のような緊張感は、その姿からは微塵も感じられない。もう何も渡すものも、隠す必要もない。『プラウダ』は膝の上に放り出され、彼はただ虚空を見つめていた。仕事を抜けてサボっている、配給の列に並ぶのさえ億劫になった、どこにでもいる平凡な労働者の姿、そのものだ。


(さて、イランは飲むか。飲むとしても、素直には飲むまい。問題は、どんな顔をして現れるかだ)


ヴィタリーが、そんな思考にふけっていた時だった。


公園の入り口から、一台の黒塗りの大型車が、雪解けの泥を跳ね上げることなく、威圧的な重量感を持って近づいてきた。GAZ-14「チャイカ」。党幹部か、あるいは特権を持つ外交官しか乗れない、ソ連製の最高級リムジンだ。


ありえない光景だった。こんな庶民の憩いの場に、権力の象徴が公然と乗り付けてきたのだ。公園にいた人々が、何事かと遠巻きに、畏怖と好奇の入り混じった視線で眺めている。


ヴィタリーは、動かなかった。だが、コートの下の全身の筋肉は、一瞬にして覚醒していた。


(……罠か? KGBか? いや、違う)


チャイカの後部座席のドアが開き、一人の男が降りてきた。仕立ての良い、西側製のダークスーツ。昨日、木立の影の中で会った、あのカフカース系の男だった。


だが、昨日の影に潜む工作員の姿はそこにはない。彼は、イラン・イスラム共和国大使館の「公式な外交官」の顔をして、胸を張り、まっすぐにヴィタリーの座るベンチへと歩いてくる。隠れるつもりなど微塵もない。むしろ、衆目に晒されることを望んでいる足取りだ。


ヴィタリーは、内心で舌打ちした。


(最悪だ……!)


これは、テヘランからの「回答」だった。これみよがしに公用車で乗り付け、外交官が白昼堂々と接触してくる。これは「密約」ではない、と。「我々は何も隠していない」と。ゴルバノフか、あるいはKGBの監視員がどこかで見ていても構わないという、あからさまなポーズ。いや、あえて見せつけているのだ。


あの男が、ヴィタリーの前に立った。周囲の市民たちが、何事かとこちらを盗み見ている。


「ごきげんよう、労働者同志」


男は、昨日とは打って変わって、流暢だが冷ややかなロシア語で、皮肉を込めて話しかけてきた。


「……何の御用だ、お偉いさん」


ヴィタリーは、あくまで不機嫌な労働者の演技を続けた。


「昨日、お宅の子供が、うちの大使館の庭にボールを投げ込んだようでね。返して差し上げようと、わざわざ足を運んだのだよ」


男は、そう言って、内ポケットから一つの封筒を取り出した。それは、イラン・イスラム共和国大使館の紋章が入った、公式な外交文書の封筒だった。男は、それをヴィタリーの膝の上の『プラウダ』の上に、無造作に放り投げた。


「……ボールのお礼は?」


とヴィタリーが低い声で言った。


「ああ、それなら」


男は、わざと周囲に聞こえるような、よく通る声で言った。


「『イラン・イスラム共和国は、中東の平和と安定を脅かす、いかなる国家の軍事行動にも反対する。イラクのクウェート侵攻は、断じて許されるものではない』」


それは、テヘランの公式見解。ゴルバノフの「新思考外交」に、完全に同調する優等生的な言葉だった。だが、男はそこで声を低め、ヴィタリーだけが聞こえる音量で囁いた。


「……そして、もう一つ伝言だ。『もし、北西の国境で騒ぎが起きれば、我が国は国連に対し、ソビエト連邦による主権侵害の可能性を、即座に提訴する準備がある』と」


拒絶。完全な、拒絶だった。陽動演習など、夢のまた夢。イランは、ヴィクトルが描いた脚本に乗るどころか、逆にゴルバノフ側に寝返り、「国境で軍を動かせば、お前たちの主人が一番恐れている国連に言いつけるぞ」と、脅してきたのだ。


男は、満足そうにヴィタリーを見下ろした。


「我々の回答は、ご理解いただけたかな?」


だが、ヴィタリーは、膝の上の封筒を、無言で見つめていた。その封筒は外交文書にしては薄く、だが拒絶文章だけにしては不自然に膨らんでいた。


ヴィタリーは、ゆっくりと顔を上げた。その目は、もはや労働者のものではなかった。彼は理解した。この「チャイカ」も、「国連への提訴」という脅し文句も、すべてはテヘランが纏った、分厚い鎧なのだと。米国に対しても、ソ連に対しても、「我々は軍事的緊張に反対した」というアリバイを作るための、完璧な舞台装置。


「……ああ。よく分かった」


ヴィタリーは、その封筒を、ゆっくりと指で弾いた。


「では、この封筒の中身は、何だ?」

「……」

「『建前』は、もう聞いた」


とヴィタリーは言った。


「『実利』の話を、聞かせてもらおうか」


男の顔から、一瞬、外交官の仮面が消えた。そこには、昨日の工作員の顔があった。


ヴィタリーは、その封筒を手に取った。指先に伝わる、硬い感触。中に入っているのは、外交文書ではない。おそらくは、国境警備隊の巡回シフト表か、あるいはレーダーサイトの整備スケジュールか。


「……『領収書』のお礼だ」


男は、観念したように、しかし微かに笑って言った。


「テヘランの賢者たちも、『石油価格の安定』こそが、地域の平和に不可欠だと判断された。……それだけだ」


次の瞬間、ヴィタリーは恥も外聞もなく、脱兎のごとく走り出した。もはや、うだつが上がらない労働者を演じている余裕はない。膝に乗せていた『プラウダ』が雪泥の中に落ち、踏みつけられるのも構わず、彼は全力で地面を蹴った。


(KGBが来る。あの派手な芝居は、俺を生贄にするためだ——)


この公園で、イラン大使館のチャイカと公然と接触し、外交文書の封筒を受け取った。KGBの監視チームが、間違いなくこの公園を包囲し始めている。


あの派手な登場は、イラン側がゴルバノフ政権に対して「我々はGRUの不穏な接触を受けたが、公式に拒絶し、抗議文を叩きつけた」という証拠を作るための、完璧なアリバイ工作だ。そして、その証拠作りのための「生贄」として、ヴィタリーは今この瞬間、KGBの監視リストの最上位に躍り出た。


肺が凍りつくような冷気を吸い込みながら、ヴィタリーは雑踏に飛び込む。見つかる前に、なんとしても姿をくらます必要がある。この封筒の中身が意味するもの——国家の運命を左右する陰謀そのものを懐に抱えて走っているのだ。捕まれば、全てが終わる。


彼が公園の出口に向かって雑踏に消えていくのを、あのカフカース系のイラン外交官は、チャイカの横で静かに見送っていた。彼は、ヴィタリーが消えた方向に向かい、誰にも気づかれないほど微かに、しかし万感の敬意を込めて、頭を下げた。


立場がある。大国の狭間で生きる、中小国の外交官としての、苦しい立場。表向きは「北西国境でのいかなる軍事行動にも抗議する」という、ゴルバノフ政権が喜ぶ公式見解を突きつけた。


だが、その外交文書の末尾に添えられた、たった一行のペルシャ語の追記。渡した者と、受け取った者にしか分からない、暗号のような外交修辞。


『……ただし、貴国の諜報活動によって提供された、我が国の安全保障を脅かす米国の「領収書」に対する深い感謝と、今後の継続的な「原油市場の安定」への期待を、ここに非公式ながら表明する』


言い逃れができる余地がある程度には、ごまかしている。もしゴルバノフが勝てば「抗議した」と言い張れる。もし軍部が勝てば「同意した」と言える。ソ連が割れている今、どちらに転んでも国益を守れるよう、テヘランは両方に賭けたのだ。そのための捨て駒として、あのGRUの男を利用した。


外交官が今できるのは、あの「捨て駒」となった男が、奇跡的にKGBの包囲網を突破してくれることを祈ることだけ。そして、あの命がけの封筒を、なんとかヤトフ元帥の元に届けてくれること。それだけを、鉛色の異国の空の下で、静かに願うことだけだった。

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