砂漠の嵐 -8:伝手
それから数週間後。モスクワ、ゴーリキー公園の片隅。
GRUの諜報員、ヴィタリーは、ベンチで『プラウダ』を広げていた。くたびれた帽子、袖の擦り切れたコート。どこにでもいる、社会主義の停滞に疲れ果てた労働者が、休日の午後に所在なげに時間を潰しているだけの光景。鉛色の空からは、湿った雪がちらついていた。人々は襟を立て、足早に通り過ぎていく。この灰色の風景に溶け込む彼に、注目する者など誰もいない。
そう、そっと彼の隣に腰を下ろした女が、ポケットから安物の紙巻きタバコ「プリマ」を取り出したとしてもだ。
「火を借りても?」
女は、周囲を一瞥してから声をかけてきた。ヴィタリーは、新聞から目を離さなかった。その視線は、社会主義の栄光を謳う古びた党大会の記事から一瞬たりとも動かない。
彼は、この任務の重さを骨の髄まで理解していた。ダーチャでの密議の後、ヤトフ元帥直々に選抜された「専門家」。誰が描いた脚本かは知らない。だが、元帥が自ら動いたという事実だけで、この任務の重さは骨の髄まで理解できた。
彼は、くたびれた労働者の、濁った声で言った。
「……人違いだ、ご婦人。俺はただ、近くのパン屋に行列ができるのを待っているだけだ」
「パン屋はもう閉まっているわ」
女は、ヴィタリーが差し出したマッチで火をつけ、紫煙を吐き出した。
「あなたの上司も、私の雇い主も、行列を待つのは嫌いなたちよ」
「……」
「用件だけ、早く」
ヴィタリーは、新聞をめくる手を止めず、独り言のように呟いた。
「……テヘランの古い友人が、昔の『ツケ』について心配していると聞いた。ペルシャのバザールで、大きな買い物をしたアメリカ人の、古い『領収書』がいくつか見つかった、と伝えてくれ」
女のタバコを持つ手が、空中で止まった。
「領収書?」
「ああ」
ヴィタリーは、新聞のスポーツ欄、CSKAモスクワの試合結果を指で叩いた。
「彼らが夜も眠れないほど恐れている、あの件の、最新の計画書だ。この『試合結果』を、お宅の旦那は見たがらないか、と聞いている」
女は、隣の男の横顔を、初めて値踏みするように盗み見た。うだつが上がらない、平凡な労働者のマスク。だが、その奥にある瞳は、シベリアの凍土のように冷たく、一切の感情を排したプロのものだった。
「……ずいぶんと、気前がいいのね。ロシア人は、タダで何かをくれるほど落ちぶれたかしら」
「タダではない」
ヴィタリーは、ようやく新聞から顔を上げた。その目は、公園の鳩を見るような、虚ろで、しかし鋭い光を宿していた。
「俺の主人は、その古い領収書と引き換えに、お宅の旦那に『新しい商売』の話を持ち掛けたいそうだ」
彼は、周囲の雑踏に紛れるほどの低い声で、核心を告げた。
「クレムリンの主には内緒の、新しい商売を」
女は、タバコの火を足元で踏み消した。彼女の雇い主が本当に恐れていたのは、米国ではない。米国と手を組み、裏切るかもしれないソビエトだ。だが、「クレムリンの主に内緒の商売」。その言葉は、テヘランが今、喉から手が出るほど聞きたがっている言葉だった。裏切りの匂い。それは、信頼できる取引の匂いでもある。
「……領収書は、明日の同じ時間、このベンチの裏だ」
女は立ち上がった。
「『新しい商売』の話は……それを見てから、テヘランが判断する」
彼女はコートの襟を立て直し、一度も振り返ることなく、公園の灰色の雑踏の中へと消えていった。
ヴィタリーは、再び『プラウダ』に目を落とした。紙面には、ゴルバノフ書記長の平和外交を称える虚しい見出しが踊っている。彼はゆっくりと新聞を畳み、ベンチを立った。パン屋は、まだ開いているかもしれない。
次の日ヴィタリーは、公園のベンチで身じろぎもせず、新聞の縁から冬の弱々しい光の下に立つ男の姿を解剖していた。彫りの深い顔立ち、雪道に慣れない歩き方。
(……カフカースの顔立ちだ。アゼリーか、あるいはグルジアか。だが、纏っている空気はテヘランのものだ)
昨日の女工作員は「使い捨て」の連絡役。「領収書」という餌に食いついたイラン大使館が、今日送り込んできたこの男こそが、交渉の権限を持つ本物の「専門家」なのだと、ヴィタリーは瞬時に判断した。テヘランが、言葉も文化も近いソ連領アゼルバイジャンの地下ネットワークを使うのは定石だ。だが、その定石通りに動いてきたという事実は、彼らがこの接触に本気であることを雄弁に物語っていた。
男は、周囲を警戒しながら、ヴィタリーの座るベンチの端に、距離を空けて腰を下ろした。ここは、モスクワの庭だ。逃げ場はない。
「昨日の女は、休暇か」
その声は、公園の雑音に溶け込む、うだつが上がらない労働者の声だった。男は、新聞で顔を隠したヴィタリーを、横目で値踏みするように見つめた。
「彼女の仕事は、昨日で終わりだ。『領収書』は?」
声は平坦だが、その裏にはプロの焦燥が隠されている。
「その前に」
ヴィタリーは、新聞を畳み、その下に隠していた手をゆっくりと動かした。男の肩が、わずかに緊張でこわばる。コートの下の何かに触れようとする気配。だが、ヴィタリーが取り出したのは、古びた新聞紙に無造作にくるまれた、小さな金属製のフィルムケースだった。彼はそれを、二人の間にあるベンチの隙間に、そっと置いた。
「俺の主人の『誠意』だ。まず、それを受け取っていただきたい」
男は、罠を警戒するように周囲を見回し、誰も見ていないことを確認してから、素早くフィルムケースを掌に収めた。重量を確認する。
「中身は」
「『イーグルクロー』の再来を恐れている同胞へ、と」
ヴィタリーは、ヤトフ元帥の決裁で切り出された「手土産」の内容を、淡々と告げた。
「最近、アラビア海で妙な動きをしている米海軍の『友人たち』……その所在と、次に何をするつもりかの、断片だ。全部ではない。続きは、商談が成立してからだ」
男の息が、わずかに詰まったのが分かった。イランが喉から手が出るほど欲しがる、米軍の動向に関する機密情報。昨日までの「領収書」という符丁が、今、国家の安全保障に関わる本物の「誠意」として目の前に差し出されたのだ。
「……ずいぶんと、具体的な『誠意』だな」
男は、フィルムケースを慎重にコートの内ポケットにしまい込んだ。
「だが、タダではないはずだ。我々の雇い主は、ゴルバノフ書記長とこれ以上事を構えるのを望まない。米国に加えてソ連まで敵に回す余裕はない」
「ゴルバノフ書記長は」
ヴィタリーは、男の言葉を遮った。
「この『商売』の相手ではない」
男の目が、鋭く光った。昨日、女が持ち帰った報告通りの言葉。ソビエトは、割れている。軍と党が、乖離している。
「……我々が手を組むのは、ソビエト連邦政府ではない、と?」
「我々が手を組むのは」
ヴィタリーは、その男が理解できる言葉を選んだ。
「ゴルバノフ書記長が米国のために捨て去ろうとしている、あなた方の『国益』と、我々ロシアの『国益』だ」
男は、沈黙した。テヘランは、米国と手を組んだゴルバノフに見捨てられ、中東で丸裸にされようとしていた。だが今、目の前の影は、「かつてのバランス・オブ・パワー」の復活を提示している。
「……それで、我々に何をしろと?」
男は、交渉のテーブルに着いた。
「今は、何も」
と、ヴィタリーは答えた。
「イラクが何をしようと、テヘランはこれまで通り『中立』と『沈黙』を守っていただきたい。米国が喜ぶような、余計な仲裁も、イラクへの背後からの攻撃も、必要ない」
「それだけか?」
「ああ。それと……」
ヴィタリーは、まるで天気の話でもするかのように、本題を切り出した。
「近々、あなた方の北西の国境が、少し騒がしくなるかもしれない」
「……?」
「演習だ。あからさまな、大規模な軍事演習。航空機も飛ぶだろう。だが、驚かないでいただきたい。銃口は、テヘランには向いていない」
男は、その言葉の裏にある、恐るべき作戦の意図を瞬時に察し、目を見開いた。
「演習……だと? この時期に? それは……」
「米軍の注意を引くには、絶好の『陽動』になる」
ヴィタリーは、冷たく言い放った。
「我々の『演習』が米軍の目を北に向けさせている間に、砂漠の南で何が起きても……テヘランは、レーダーのスイッチを切って、何も見なかったことにしていただきたい」
男は、無意識にコートの襟を正した。話が、大きすぎる。これは、単なる情報提供ではない。米ソの「新思考外交」そのものを、現場の軍事力で根底から覆すための、巨大な欺瞞工作だ。だが、もしそれが成功すれば、米軍はイラクで泥沼にはまり、イランへの圧力は激減する。
「……持ち帰らせていただく。この話は、私の一存では決められない」
「明日の同じ時間だ」
ヴィタリーは、男がベンチを立ち去る背中に、最後の言葉をかけた。
「テヘランの『賢者』たちも、石油価格がこれ以上下がるのは、望まないはずだ」
男の足が一瞬止まり、そして振り返ることなく早足で去っていった。石油。イランにとっても、それは国家の血液だ。彼らもまた、原油価格の暴落に怯えている。利害は、完全に一致している。
ヴィタリーは、その姿が公園の雑踏に完全に消えるまで、冷たい冬の空の下で、動かずに待機を続けた。やがて立ち上がり、空になったフィルムケースの包み紙——ただの古新聞——をゴミ箱に捨てた。証拠は、何も残らない。
更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。




