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人民のために

老官僚――彼の名はセミョーン・アレクサンドロフといった――からヴィクトルに回された最初の仕事は、膨大な資料のチェックだった。

それは、西側の経済思想の歴史そのものだった。重商主義の勃興から、産業革命、大恐慌、そして二度の世界大戦を経て現代に至るまで、資本主義がいかにしてその姿を変え、世界を覆い尽くしていったかの年代記。


ヴィクトルは、レニングラードの白夜が窓を青白く照らす深夜まで、貪るようにページをめくった。

その緻密な論理、効率性を追求する冷徹なシステムは、彼を魅了した。

だが同時に、その理論の裏に潜む問題点も、彼の目にははっきりと見えてきた。市場の暴走、制御不能な格差の拡大、そして全てを商品としてしか見なくなる人間性の喪失。


それはあるいは、祖国が完全に壊れ、誰もが明日のパンに飢えるような状況で読んだなら、見過ごしてしまったかもしれない瑕疵かしだった。

だが幸運なことに、ヴィクトル・ペトロフがこの禁断の資料に触れた時、ソビエトという祖国は、病んではいてもまだ健在だった。

彼は、失うべきものを持つ者の視点から、この新しい思想を冷静に、そして批判的に分析することができたのだ。


数ヶ月後、アレクサンドロフはヴィクトルを呼び出し、新たな辞令を渡した。

彼は、レニングラード市内に設けられた市場経済実験区画、その商業エリアの担当官に任命された。

そこでは、国営ではない小規模な個人商店や協同組合コーポラティブの設立が、限定的に許可されることになっていた。


それは、ソビエトの肌に突き立てられる、異分子の針のようなものだった。

党の保守派は眉をひそめ、KGBは監視の目を光らせ、そして西側諸国は、この小さな穴から共産主義のダムを崩せるのではないかと期待を寄せていた。

まさに、あらゆる思惑が渦巻く最前線だった。


なぜ、新参者の自分が。ヴィクトルの疑問に、アレクサンドロフは静かに答えた。


「我々はこの実験を成功させたい。だが、乗っ取られたいわけではない」


この役職には、単なる経済知識以上のものが求められていた。

実験区画には、必ず党の特権を利用しようとする腐敗役人や、闇市場の商人たちが群がってくる。

そして同時に、西側諸国の情報機関も、「資本投下」という甘い飴玉を転がし、協力者となるエージェントを探しに来るだろう。


ヴィクトルが選ばれたのは、その実直な人柄と、かすかに漂う人の良さ、そして何よりも、スヴェルドロフスク時代に証明されてきた不正に決して屈しない心、その一点にあった。

中央の圧力にも、西側の誘惑にも屈しない男として。

この危険な実験を、純粋なデータ収集の場として管理できる、唯一の男として。

アレクサンドロフたちは、ウラルから来たこの無骨な官僚に、祖国の未来を賭けたささやかな希望を託したのだった。



数ヶ月が過ぎた。レニングラードの短い夏が終わり、街路樹が色づき始めていた。

ヴィクトルの担当する実験区画は、混沌としながらも、確かな活気を帯び始めていた。


彼は人たらしではなかった。都会的な気の利いた会話も、愛想笑いも苦手だった。

だが、田舎出身の彼が持つ、朴訥とした誠実さが、皮肉屋で知られるレニングラードの商人たちの心を、少しずつ溶かしつつあった。

彼は机に座っているだけではなかった。毎日商店を回り、店主たちの不平不満に耳を傾け、一つ一つの問題を粘り強く解決しようと奔走した。その姿は、これまで彼らが知るどんな官僚とも違っていた。


彼は配給物資と製品の品質を厳しくチェックし、限定的ながらも自由な価格設定と資本の蓄積を許可した。

それは、社会主義の肌の上で資本主義を育てるような、前代未聞の試みだった。


もちろん、失敗もあった。論文や資料だけでは到底読み取れない、生々しい現実の壁に何度もぶつかった。

あるパン屋が小麦粉を独占しようとすれば、別の小売業者が品不足に陥る。自由競争は、時に最も弱い者を真っ先に淘汰した。


その壁を乗り越えるため、ヴィクトルはかつての彼なら決してやらなかったであろう手段に手を染め始めた。

スヴェルドロフスク時代に築いたコネを使い、不足した物資を横流ししてもらう。制度の抜け穴を探し、規則を拡大解釈して商人たちに便宜を図る。

そして時には、エリツォンを通じて得たモスクワの官僚との裏口取引さえ厭わなかった。

正攻法だけでは、この前例のない実験を守り抜くことはできなかったのだ。


ある夜、彼は自らの卑賤な手法の数々を、アレクサンドロフに報告した。罪を告白するような、硬い表情だった。


アレクサンドロフは、その報告を最後まで黙って聞いていた。

そして、全てを聞き終えると、咎めるでもなく、褒めるでもなく、ただ静かに、深く頷いた。


「それでいい」


老官僚は、万年筆を置き、両手の指を組んだ。


「ペトロフ君、よく聞け。不正に飲まれるな。だが、時には不正を使え。この国は、きれいごとだけでは動かん」


彼の言葉は、静かだが、ヴィクトルの魂に直接響くような重みがあった。


「ただし、絶対に忘れるな。その力は、自分のためではない。人民のために使うのだ。

そして、君が一人の商人を助けるために使ったその力が、別の場所で別の誰かの食い扶持を奪うことがあってはならない。

全体の利益を常に考えろ。それが我々ゴスプランの官僚の仕事だ」


その言葉は、まるで雷鳴のようにヴィクトルを打ちのめした。

清濁併せ呑むこと。しかし、決して大義を見失わないこと。

目的と手段を混同せず、常に人民全体の利益を最大化する視点を持つこと。


セミョーン・アレクサンドロフは、このレニングラードの薄暗い執務室で、その後の数十年にわたるヴィクトル・ペトロフの行動原理の全てとなる、絶対的な基準を、彼の魂に深く、そして永遠に刻み込んだのだった。


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