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砂漠の嵐 -7:膝を屈するか

ボリス・エリツォンは、自らが掴むであろう政治的勝利の昂揚と、もし失敗すれば待っている破滅の可能性、その両方を震える背中に抱え、嵐の夜のダーチャから先に退出していった。

重いヴォルガのエンジン音が、雨音の中に遠ざかっていく。


部屋には、暖炉の火を見つめるヴィクトルと、帰り支度を整えるヤトフ元帥だけが残された。

ヤトフが分厚い軍用コートを肩に羽織ろうとした、その時だった。


「元帥」


ヴィクトルが、声をかけた。


「この件、私自身はこれ以上、軍の作戦行動に口を挟むことはできません。ですが、GRUを通じたイランとの交渉について、一つだけ助言をさせていただきたい」


ヤトフの動きが止まる。

老元帥の背中が、一瞬、石のように硬くなった。

軍の聖域に対する明らかな干渉への拒絶だった。


国防大臣である自分に対し、ゴスプランの一官僚が極秘工作の機微について指図するなど、平時であれば即座に憲兵を呼ぶレベルの越権行為だ。


だが、とヤトフは自嘲した。

たった今、軍の独断専行という反逆を共謀した身だ。

今さら罪の一つや二つ、変わりはない。


ヤトフが無言で振り返り、顎をしゃくったのを見て、ヴィクトルは懐から一枚のメモを差し出した。


「イラン政府が、喉から手が出るほど欲しがるものです。いえ……彼らの『立場』を保証するための、手付金とでも言いましょうか」


ヤトフは、そのメモを受け取り、暖炉の火にかざして目を通した。

そこに記されていたのは、暗号めいた数行の箇条書きと、いくつかの座標だった。


「……情報、か」


ヤトフは、そのリストの意味を即座に理解した。

GRU長官であれば、その価値の重さを知っているはずの情報。


「彼らのトラウマである、米軍の秘密作戦……。その最新の動向を共有する、と。その代償として、空域の黙認を求めると?」


ヤトフは顎を引き、10年前の記憶を呼び起こした。


「忘れたか、ペトロフ君。1980年のイーグルクロー作戦を。あの砂漠で燃えた米軍輸送機の映像を、革命防衛隊は今でも繰り返し流している。彼らは、米軍が再び来ると確信している。その恐怖は本物だ」


ヤトフはメモを指で弾いた。


「だが、これは……あまりにも『軽い代償』と言っていいだろう」

「……」


「イランの立場を考えてみろ。米軍がイラク国境に集結している今、彼らが最も恐れているのは確かにワシントンだ。だが、それと同じか、あるいはそれ以上に、歴史的に彼らは我々を恐れている」


ヤトフの言葉は、血塗られた歴史的事実に裏打ちされていた。


「仮に、このあからさまな軍事協力行為がゴルバノフ書記長に露見し、彼が激怒して米国との『共闘』を宣言したらどうなる? 南から米軍、北からソ連軍。イランは挟み撃ちにされ、国家の存続が終わる。彼らは、我々ソ連軍が再び彼らの領土に進駐してくるという、大戦中の悪夢を常に懸念しているのだ」


ヤトフは、ヴィクトルに詰め寄った。


「こんな紙切れ一枚の情報で、彼らがその国家的な破滅リスクを負い、本当に我々の『火遊び』に付き合うと、君は本気で考えているのか?」


ヴィクトルは、ヤトフのその真っ当な懸念を見て、首を振った。


「元帥、あなたの読みは正しい。その情報だけでは、彼らは動きません」

「ならば、どうする」

「この情報は、あくまで我々の『誠意』を示す挨拶状に過ぎません」


ヴィクトルは、ヤトフの目を真っ直ぐに見据え、この交渉の本当の「本筋」を告げた。


「ヤトフ元帥。ゴルバノフ書記長が進める『新思考外交』とは、西側には聞こえがいいですが、その本質は『対米協調』……もっと言えば、米国の覇権に対する『対米従属』です」

「……否定はせん」

「そして、その『新思考外交』によって、中東で最も国益を損ね、孤独な恐怖に震えているのは誰か」


ヴィクトルは、答えを待たずに言った。


「イランです。彼らは、宿敵である『大サタン』米国と、その背後にいるイスラエルによって、外交的にも経済的にも締め上げられている。彼らにとって、無神論のソビエト連邦は『小サタン』ではあっても、米国に対抗するための『唯一のバランサー』だった。ゴルバノフ書記長は今、その重しを自ら手放し、イランを米国の前に丸裸で放り出そうとしているのです」


ヴィクトルは、ヤトフに一歩近づいた。

その声に、熱がこもる。


「我々がテヘランに提示するのは、情報ではありません。ゴルバノフの『新思考外交』が行き着く先は、遅かれ早かれ破綻です。その後に来る新しいロシアとの、新しい関係を提示するのです。『我々は、もはや米国とは一線を画す。あなた方の国益を守る、かつてのバランサーに戻る用意がある』と」


ヤトフは息を呑んだ。

この男は、一官僚の身で、国家の外交戦略の根幹を、勝手に書き換えようとしている。

「中東における対米牽制勢力としてのソビエトの復権」。それは、革命防衛隊にとって、米軍の侵攻を食い止めるための、喉から手が出るほど欲しい安全保障のカードだ。


「我々が差し出すのは、彼らが生き残るための、未来の『希望』なのです」


ヴィクトルは断言した。


「米軍に一撃を加えたいという欲求と、ソ連という後ろ盾を失いたくないという恐怖。この二つを同時に刺激すれば、彼らは必ず動きます。……GRUの同志たちに、そうお伝えください」


ヤトフは、しばらくの間、暖炉の炎を見つめていた。

そして、短く、重く、頷いた。


「……伝令は飛ばす。」


老元帥はコートを翻し、雨の降る闇へと消えていった。

残されたヴィクトルは、暖炉の炎を見つめた。


駒は全て盤上に置かれた。

あとは、それがどう動くか。

もはや彼の手を離れ、歴史という名の混沌に委ねられていた。

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