砂漠の嵐 -6:GRU
「イランに、話を、つける……?」
ヤトフ元帥はヴィクトルのその平然とした一言を、信じ難いものでも見るかのようにオウム返しに呟いた。
その声には驚きを超えて、目の前の男の正気とその歴史認識能力を根本から疑う響きが混じっていた。
エリツォンもまた息を呑んだまま固まっていた。
だが彼は単に怯えているのではない。
革命イランという「狂信者」と手を組むことの政治的リスクとそれによって得られるリターンの巨大さを天秤にかけ、脳内で激しく計算しているのだ。
だがヤトフは違う。
彼は軍人としてこの百年の地政学の血塗られた歴史を、その頭に叩き込んでいる。
「ペトロフ君、君は歴史を知らんのか」
ヤトフの声が静かな怒りと苛立ちを帯びた。
「帝政イランから革命によって切り替わった今のイスラム共和国政府は、確かに旧パフラヴィー朝よりは我々と妥協的かもしれない。だがそれは表面上の話だ。彼らの根底には我々ロシア……ソビエトに対する、骨の髄まで染み込んだ恐怖と不信がある」
ヤトフは立ち上がり、暖炉の前をゆっくりと歩き始めた。
その巨大な影が揺らめく炎に合わせて壁に黒々と踊る。
「1941年、大祖国戦争の最中だ。対ドイツへの補給路確保を名目に、イギリス軍と『共同』して彼らの土地を南北から分割占領したのは、誰あろうこのソビエト軍なのだ。我々は彼らの中立と主権を一度、完膚なきまでに踏みにじっている」
老元帥は足を止め、ヴィクトルを厳しい目で見下ろした。
「その歴史的な恐怖と屈辱を持つ相手が我々の軍事演習を黙認するだと? ましてや米軍を攻撃するための『陽動』という、国家の命運を賭けた火遊びに手を貸すと本気で思っているのか。彼らにとって我々は『小サタン』だ。アメリカが『大サタン』なら、我々はその次の悪魔なのだよ」
それはソ連軍のトップとして、そして歴史の証人として、あまりにも真っ当で反論の余地のない懸念だった。
「つまり元帥。あいつらは俺たちを許していないが、アメリカはもっと嫌っている。そういうことか」
エリツォンが腕を組んだまま低い声で割り込んだ。
乱暴な要約だったが、本質は外していなかった。
ヤトフは一瞬エリツォンを見やり、それから小さく頷いた。
「……簡潔だが間違ってはいない。だがそれで我々に手を貸す理由にはならんのだ」
だがヴィクトルは、ヤトフが語り終えるのを待つ間にテーブルの上のコーヒーを一口含んだだけだった。
否定もせず、肯定もしない。
その沈黙が逆にヤトフに「何か勝算があるのか」と思わせた。
ヤトフはその若き官僚の沈黙を前に、自分が感情で語っていたことに気づいた。
軍人としての自分が政治家のように振る舞っている。
その自覚が彼を冷静に引き戻した。
感情を排し、歴史を棚上げし、純粋に戦術と戦略の盤面だけで考えた時――
「……だが」
ヤトフは再び腕を組み、暖炉の方を向いた。
「……だが、もし。万が一にでも君が言う『イラン空域の黙認通過』、あるいは『陽動の承認』という外交的奇跡が実現できるならば」
軍人としてのシミュレーションが彼の脳内で一つの結論を導き出した。
「そうなれば確かに砂漠での伏撃体制を整えることは戦術的に可能だ」
ヤトフの声から怒りが消え、参謀の響きに変わった。
「イラン国境での演習によって航空支援の脅威が北へ分散されれば、南の砂漠に『空白』が生まれる。地上部隊はその隙を突いて確実に米軍の側面を食い破れるだろう。そして伏撃後、装備を全て破棄して砂漠に紛れて撤退するか、あるいは……」
ヤトフは地図上の線を指でなぞった。
「……『安全地帯』となったイラン国境へ逃げ込むか。その退路も確かに立つ」
老元帥は深く重い息をついた。
作戦としては成立する。
もしその「外交的不可能」さえ突破できるのなら。
「だがこれは……ペトロフ君。並の人間ができる交渉ではない」
ヤトフは首を横に振った。
その顔には物理的な困難さへの懸念が張り付いていた。
「テヘランのソ連大使館は外務省(MID)の管轄だ。あそこは今、シェヴァルダニ外相の息のかかった『新思考』派の外交官で占められている。彼らにイラン革命防衛隊との裏取引など持ちかければ、門前払いで終わるどころか即座にクレムリンのゴルバノフへ密告電報が飛ぶ」
ヤトフはヴィクトルを値踏みするように見つめた。
表の外交ルートは完全に塞がれている。
KGBもまたゴルバノフによる粛清と再編の最中で動きが取れない。
この若者がそれほどの状況を覆す「裏」の手札を持っているというのか。
そしてその瞬間。
ヤトフの脳裏に、ある閃きが走った。
彼は軍人だ。
この巨大なソビエト連邦には党や政府の外交ルートとは別に、戦場や紛争地帯において独自の「外交」を実行してきた組織があることを、誰よりも知っている。
「……まさか、貴様」
ヤトフの声が驚愕でわずかに震えた。
「『水族館』を使う気か?」
参謀本部情報総局、GRU。俗称アクアリウム。
KGBが国内の治安維持や政治工作を主とするなら、GRUは純粋な軍事情報の収集と海外での特殊工作を任務とする、軍直轄の影の組織だ。
冷戦時代、中東やアフリカの紛争地帯において西側の外交官が足を踏み入れられない場所で、現地の軍閥や革命勢力と太いパイプを築いてきたのは常に彼らだった。
テヘランには外務省もKGBも関知しない、軍人同士の独自のラインが存在する。
ヴィクトルは答えなかった。
ただヤトフの目を見つめ返した。
それだけで十分だった。
ヤトフはもはや何も言わなかった。
ただ自分がここに呼ばれた本当の理由を、今ようやく理解した。
ヴィクトルは立ち上がった。
密議は終わった。
「では元帥。ボリス・ニコラエヴィチ」
ヴィクトルは二人に向かって言った。
その声にはもはや確認の響きはなかった。
ただ決定事項の通達だけがあった。
「よろしいですね」
主語はなかった。
誰がイランと交渉し、誰が大隊を動かし、誰が政治的責任を取るのか。
その全てを省略した、冷たい一言。
エリツォンは膝の上で拳を握り、それからゆっくりと開いた。
決断した男の手だった。
恐怖は消えていない。
だがそれ以上に権力への渇望が、その瞳に暗い光を灯していた。
彼はこわばった顔で、しかし力強く頷いた。
ヤトフは目を閉じたまま動かなかった。
だがその拳は固く握りしめられ、軍人としての覚悟を決めていた。
それは引き返すことのできない道への、沈黙の同意だった。
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