砂漠の嵐 -2:新思考外交
ヴィクトルはエリツォンという「表の顔」が軍の自尊心をくすぐる演説で議会を沸かせているのを確認すると、静かにその場を離れた。
熱狂はエリツォンに任せればいい。必要なのはその熱狂を裏付ける冷たい鉄の論理だ。
彼は黒塗りの公用車に乗り込み、真の目的地へと向かった。
アルバーツカヤ広場、国防省。
そこはクレムリンの政治的な喧騒とは無縁の、重苦しい沈黙と規律に支配されたソ連軍最高司令部の要塞だった。
「エリツォン議長の密使か」
謁見室の重い扉の奥で、ドミトリー・ヤトフ元帥はヴィクトルを値踏みするように冷ややかに見下ろした。軍服の胸に並ぶ勲章が部屋の照明を浴びて鈍く光る。その瞳にはポピュリズムに走るエリツォン一派への警戒心が露骨に浮かんでいた。
「いいえ、元帥」
ヴィクトルはその威圧感に一歩も引かず、静かに首を振った。
「ボリス・ニコラエヴィチは軍の『名誉』を憂いておられます。ですが私はゴスプランの一官僚として、軍の『生存』について数字の話をしに参りました」
「生存だと?」
ヤトフが不快げに眉をひそめる。
ヴィクトルはエリツォンに見せたような扇情的なメモではなく、あの「裏帳簿」から抽出した無機質なグラフと試算表を老元帥の執務机の上に広げた。
「精神論ではありません。兵站の話です」
ヴィクトルはグラフの一点を指し示した。
「現在、国家予算の歳入は石油輸出に依存しています。原油価格が1ドル下がるごとに連邦の国家予算から何億ルーブルが消えるか。そしてその減収があなたの指揮下にある師団の維持費を具体的にいつ、どこでショートさせるか……その試算です」
ヤトフは初めは見る気もない様子だった。
だがそこに並ぶ数字の羅列が極めて具体的かつ致命的なものであることに気づき、視線を落とした。
「ゴルバノフ書記長の『高潔な』外交は西側の拍手と引き換えに、この命綱を切ろうとしています」
ヴィクトルは淡々と続けた。
「アメリカと協調しイラクを早期に潰せば、中東情勢は安定し原油価格は下落します。そうなれば来年の春には軍への給与支払いが遅延し始めます。装備の更新など夢のまた夢。兵士に食わせるパンすら買えなくなる」
それは軍人であるヤトフにとって、戦場での敗北以上に恐ろしい「兵站の崩壊」という悪夢の予言だった。
「……ペトロフ同志、何を言いたい」
ヤトフの声が低くなった。警戒心は消えていない。だがそこには聞く耳を持った者の響きがあった。
「軍を維持するためには、元帥。きれいごとは不要です」
ヴィクトルは老元帥の目をまっすぐに見つめた。
「中東の『混乱の継続』が必要です。緊張が高まり原油価格が高止まりすることだけが今、瀕死の我が国の心肺機能を維持できるのです。アメリカに同調して早期解決に手を貸すなど自殺行為です」
ヤトフは息を呑んだ。目の前の若造は平和や正義、あるいは共産主義のイデオロギーですらなく、ただ「国家財政と軍の維持」という汚れた実利のためだけに戦争の継続を望んでいる。
その発想は政治家というよりは戦場の参謀に近い。
「……エリツォンの懐刀と聞いていたが」
ヤトフは机の上の書類から顔を上げ、ヴィクトルを凝視した。
「君はあの男とは違うな。戦争を経済の損益分岐点で見ている」
「否定はしません。私は数字の管理官ですから」
「フン……」
ヤトフは不快そうに鼻を鳴らした。だがその一方で、その口元にはかすかに、ほんのかすかに笑みが浮かんでいた。それは同類を見つけた時の微かな共感に近いものだった。
「よかろう、ペトロフ同志。貴様の数字は不愉快だが正確だ。ゴルバノフの理想主義が軍の兵站を脅かしているという認識は共有しよう」
老元帥は書類をヴィクトルに押し返した。
「軍としても外交方針の転換を強く要求する。ゴルバノフがこれ以上アメリカの顔色をうかがうようなら……我々も黙ってはいない」
それは軍部とエリツォン派との間に細い糸が繋がった瞬間だった。
だが――歴史の流れは彼らの想定よりも急な動きを見せる。ゴルバノフと当時のシェヴァルダニ外相が主導する「新思考外交」の奔流は、軍部保守派の抵抗を押し流した。
ソビエト連邦は国連安保理において、最終的に米国との協調路線を崩さなかった。イラクへの武力行使容認決議にソ連は拒否権を行使しなかったのだ。ヴィクトルの第一の暗躍は失敗に終わった。
彼は執務室でテレビが映し出す国連のニュースを無表情で見つめていた。
画面の中では議事上の議論に対し西側のBBCのアナウンサーやコメンテーターが、ソ連の「英断」を称賛していた。だが彼にはそれが祖国へ囁かれる死の囁きにしか聞こえなかった。
「ヴィクトル・パーヴロヴィチ」
チェルノフが蒼白な顔で立っていた。
「終わりですね。これで石油価格の下落は避けられない。軍の予算も……」
「いや」
ヴィクトルは静かに立ち上がった。
その瞳に諦めの色はなかった。むしろより深く、より暗い決意の炎が宿っていた。
「状況は変わった。だが目的は変わらない」
彼は受話器を取った。
「軍が公的にゴルバノフを止められなかった以上、もはや個別の圧力では機能しない。政治的な力と物理的な力。この二つを直接、強固に結びつける必要がある」
ヴィクトルはダイヤルを回しながら、チェルノフに短く告げた。
「車を用意しろ。場所は我々が手入れしている党幹部用の保養施設だ。あそこなら盗聴の心配はない」
「誰を呼ぶのですか?」
「ボリス・ニコラエヴィチ。そしてドミトリー・ヤトフ元帥だ」
チェルノフは絶句した。
エリツォンとヤトフ。水と油。リベラルな改革派の旗手と頑迷な軍部保守派の巨頭。
互いに蛇蝎のごとく嫌い合う二人が同じテーブルに着くなどあり得ない。
「来るさ」
ヴィクトルは静かに言い放った。
「二人とも祖国が死にかけていることを知っている。そしてそれを止められるのが、もはやゴルバノフではないこともな。嫌い合う者同士でも沈む船の上では手を取り合うしかない」
ヴィクトルは受話器の向こうの相手が出たのを確認すると、声を低くした。
「元帥。先日お話しした『最悪のシナリオ』が現実となりました。……ええ。ついては軍を飢えさせないための最後の策をご提案したい。今夜、極秘でお会いできますか。……はい、もう一人お客様をお呼びしています」
電話を切ると、ヴィクトルは窓の外の闇を見つめた。これは国家の生存本能が引き合わせる必然の会合だ。エリツォンという「政治の怪物」。ヤトフという「軍の重鎮」。
そしてその間を取り持つ「数字の管理者」である自分。
この奇妙な三角形だけが、来るべき破局の中でロシアを繋ぎ止める錨になる。
「急ぐぞ、チェルノフ。今夜が本当の始まりだ」
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