砂漠の嵐 -1:湾岸動乱
冷戦の終わりよりわずかに時は遡る。
1990年の秋、モスクワは権力闘争という名の熱病に浮かされていた。ヴィクトル・ペトロフはロシア共和国政府が彼に割り当てた官舎のリビングで、窓の外に広がるモスクワの夜景を無表情に見下ろしていた。クレムリンに近い一等地にあるこの部屋は、エリツォンの「懐刀」に対する破格の待遇だった。
だが部屋の中は殺風景そのものだ。装飾品はなく、あるのは持ち込んだ実務書類の山と煎れたてのコーヒーの香りだけ。彼はここを生活の場ではなく、ただの前線基地として使っていた。
彼がレニングラードから持ち込んだ「機密ファイル」という名の弾丸は、ボリス・エリツォンの手によって効果的に使われていた。高官たちの腐敗と不正蓄財の証拠はゴルバノフ書記長の権力基盤を確実に蝕んでいく。
だがヴィクトルが今、腹心の部下フョードル・チェルノフと共に格闘しているのは政敵の失脚リストではなかった。国家の「裏帳簿」。ソビエト連邦という巨大な企業の真の貸借対照表だ。
一か月前、国際ニュースが世界を駆け巡った。1990年8月2日、イラクによるクウェート侵攻。
クレムリンは長年の「友好国」であるサーミド・フセインの暴挙に激震した。ミハイル・ゴルバノフ書記長はこの危機を、自らが推進する「新思考外交」の試金石と捉えた。
彼は即座に米国との協調を選択。イラクを公然と非難し、国連安全保障理事会での経済制裁決議に同調する姿勢を見せた。西側諸国はソ連のその「理性的」な態度を絶賛した。
だがヴィクトルはその決定を、官舎のソファに深く沈み込みながら冷ややかに分析していた。
「ゴルバノフ書記長は焦っていますね」
チェルノフがコーヒーを注ぎながら呟いた。
「西側からの経済支援欲しさに、長年の得意客を門前払いした。イラクはソ連製兵器の最大のお得意様だというのに」
「ああ。だが問題は金だけではない」
ヴィクトルは机に座ると手元の報告書から目を向けながら答えた。イラク軍には多数のソ連軍事顧問団が駐留し、彼らの装備体系はソビエト製で統一されている。
軍部にとってイラクは中東における戦略的要衝であり、兄弟分とも言える存在だった。それをゴルバノフはアメリカ国務長官と握手をするために、一夜にして「侵略者」と断じ切り捨てようとしている。
「見ろ、チェルノフ。石油価格は上がっている。短期的にはこれはソ連にとって恵みの雨だ。だが……」
ヴィクトルは窓の外、クレムリンの方角を見据えた。
「ゴルバノフはもっと重要なものを失ったことに気づいていない」
「重要なもの?」
「『誇り』だ。軍人たちのな」
ヴィクトルは静かに言った。
「彼らは自分たちが育てた生徒(イラク軍)が、よりにもよって政治局の判断で見捨てられ、アメリカに袋叩きにされようとしているのを見ている。彼らが感じているのは道徳的な義憤ではない。アメリカへの屈服に対する生理的な嫌悪だ」
ゴルバノフの「新思考外交」は西側では平和の象徴だが、クレムリンの奥深くに巣食う保守派や軍人たちにとっては「媚米」という名の裏切りに他ならなかった。ヴィクトルは決断した。この「嫌悪」こそがエリツォンが軍を取り込むための鍵になる。
翌日彼はロシア最高会議議長執務室にいた。
ボリス・エリツォンは執務机の上で西側の新聞に目を通していた。「ソ連、国際協調へ」「ゴルバノフの英断」という見出しが踊っている。彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ヴィクトルか。優等生は人気者だな。アメリカ大統領のプードルになったと褒めそやされている」
エリツォンはゴルバノフが西側で評価されるたびに、本能的な嫉妬と苛立ちを感じていた。ヴィクトルはその感情の波長に正確に言葉を合わせた。
「ええ。ですがその喝采は国内で最も危険な男たちを敵に回しました」
「何?」
エリツォンの瞳に鋭い光が宿る。ヴィクトルは一枚のメモを置いた。
「軍部、特に参謀本部とKGBの一部は今回の対応に激怒しています。彼らにとってイラクを見捨てることは、ソビエトが超大国であることを辞め、アメリカの属国に成り下がったことを認めるに等しい」
ヴィクトルは淡々と、しかしエリツォンの政治的嗅覚を刺激するように続けた。
「彼らは今、拠り所を失っています。ゴルバノフは裏切り者だ。かといって保守派の長老たちは老いぼれている。彼らは探しているのです。『強いロシア』を代弁してくれる真の指導者を」
エリツォンはしばらく沈黙し、太い指で机を叩いた。その頭脳の中でヴィクトルの言葉が瞬時に政治的な方程式へと変換されていくのが分かった。
イラク擁護ではない。「誇り」の擁護だ。ゴルバノフを「アメリカの言いなり」と批判することで、保守的な軍人の支持をごっそりと奪い取ることができる。
「……なるほどな」
エリツォンの口元が獰猛に歪んだ。
「あの優等生はワシントンの晩餐会に招かれたいがために、同志たちの顔に泥を塗ったわけか。軍の連中が面白くないのは当然だ」
彼は立ち上がり、窓の外の広場を見据えた。その背中からは強烈な覇気が立ち昇っていた。
「ヴィクトル、お前の言う通りだ。これは好機だ。ゴルバノフが外を向いて尻尾を振っている間に、俺は内を固める。傷ついた軍のプライドを俺が掬い上げてやる」
誰かに言わされたのではない。エリツォン自身がその本能で、ゴルバノフの最大の弱点、国内基盤の脆弱さを突く角度を見つけたのだ。
「原稿を用意しろ。激しいやつだ。『自主独立』と『国益』。そして『同盟国への誠意』。この三つを叩き込め。アメリカを批判する必要はない。ただ『ゴルバノフの弱腰』を徹底的に叩くんだ」
「承知いたしました」
ヴィクトルは深く頭を下げた。
数日後、ロシア共和国最高会議の壇上からエリツォンの雷鳴のような声が響き渡った。
「ゴルバノフ書記長の対米追従はソビエトの国益を損ない、長年の友人を無慈悲に切り捨てる『道義なき』行為である! 我々ロシアは大国としての誇りにかけて、この弱腰外交に断固反対する!」
その批判は単なる政争の具を超え、ゴルバノフの外交政策に鬱屈した不満を持っていた軍部保守派の心に深く、熱く突き刺さった。
まだ砂漠の嵐は吹いていない。だがクレムリンの中ではそれ以上に激しい権力闘争の嵐が、今まさに吹き荒れようとしていた。
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