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見過ごされたもの(旧_隣人への敬意前半部)

と、すいません。3分ぐらい一部抜けた状態で投稿してました(゜Д゜;)。

「まず、我々が」

ヴィクトルは、ナザルベフの反応を慎重にうかがいながら、ゆっくりと、決して隙を見せないように言葉を紡ぎ始めた。

目の前の男は、感情で動く相手ではない。論理と、そして利益で動く。ならば、こちらもその土俵で戦うまでだ。


「ご存じのように、私たちロシアは現在、段階的な経済改革計画の下で、市場経済への移行を進めております。将来的な話とはなりますが、宇宙開発を担うロスコスモスのような組織も、いずれは民営化されることになるでしょう。ですが、それでは契約の安定性が保証されない。あなた方にとっても、それは望ましい未来ではないはずです」


彼はまず、相手の利益を代弁するという形で、交渉の枠組みを提示した。


そして次に、核心に触れる。


「またあくまで、バイコヌールは旧ソ連にとって最良の発射場であり、来るべきグローバル時代における、世界的な立地競争力は、残念ながら高くはない」


それは、無視することもできない事実だった。赤道に近いギアナ宇宙センターや、ケープカナベラルに比べ、バイコヌールは地理的に不利なのだ。

ヴィクトルは、その共有された事実をテーブルに乗せることで、価格交渉の主導権を握ろうとした。


「そこで、ご提案です。将来の不確定要素を排除するため、ロシア『政府』が発行する保証の形で、国営省庁が存続する期間…そうですね、仮に2009年ごろまで、今後17年間のリース契約を、まず締結させていただきたい」


「それ以降は、新たな市場価格に基づく自由契約とします。いかがでしょうか」


ヴィクトルは、具体的な相場を提示しながら続けた。ドル建てでの、月払い。

これからしばらくは不安定化するであろうルーブルの信頼性に対する、ドル支払いという最大限の譲歩。

外貨準備高が枯渇しかけているロシアにとって、それは身を切るような提案だった。痛くないはずがない。


ナザルベフは、黙ってその提案を聞いていた。

彼の表情は、あの”微笑みの男”のまま、一切変わらない。

彼はゆっくりと茶を一口すすると、カップを静かに置いた。


「実に合理的で、よく練られた提案だ。ペトロフ君」


彼は、まずヴィクトルの提案を評価した。だが、その目は笑っていない。


「17年、という数字も興味深い。その頃には、貴国は新たな射場を極東あたりに完成させているか、あるいは我々と対等に再交渉できるほど国力を回復させているか。ロシアが時間を買うための、的確な数字だ」


全て、見抜かれている。ヴィクトルの背筋に、かすかな汗が滲んだ。


「ドル建てでの支払いというのも、大きな誠意と感じる。感謝しよう」


ナザルベフは、そう言って、一度言葉を切った。

そして、静かに、しかし決定的な一言を付け加えた。


「だが、君は一つ、勘違いをしている」


「…と、申しますと?」


「バイコヌールの価値だ」

ナザルベフは、ヴィクトルの目をまっすぐに見た。

「世界市場における競争力など、この交渉では何の意味もなさない。我々が今話しているのは、『ロシアにとっての』バイコヌールの価値だ。そして、君自身が先ほど認めたように、その価値は『絶対的』だ」


彼は、ヴィクトルが突きつけたロジックを、そのままカウンターとして返してきたのだ。


「そして、我々が欲しいのは、単なるリース料ではない」


ナザルベフは、まるでチェスの駒を進めるように、ゆっくりと続けた。


「施設の維持管理における、カザフスタン国民の雇用。ロシアの持つ宇宙開発技術の、我が国の若者たちへの段階的な技術移転。そして何十年にもわたってこの土地が受け入れてきた、ロケット燃料による環境汚染への補償。これら全てを含んだものが、君が言うところの『勘定書』であるべきだ」


ナザルベフは、再びあの穏やかな笑みを浮かべた。


「我々は、ただの大家になりたいのではない。未来への、対等なパートナーになりたいのだよ、ペトロフ君」


ヴィクトルは、完全に意表を突かれた。


彼は、リース料の価格交渉を想定していた。

だが、ナザルベフが提示してきたのは、カザフスタンの国家そのものを近代化させるための、壮大な国家戦略だった。


この「微笑みの男」は、ソビエトの解体という歴史の転換点を、自国が飛躍するための最大の商機と捉えていたのだ。


いくらだ。彼の言っていることを全て実現するには、一体いくらかかる。

ヴィクトルの脳内は、ゴスプランの官僚として培われた全ての能力を動員し、猛烈な勢いで回転し始めた。


(リース料は可能だ。ドル建ては痛いが、国家の存亡に比べれば払える。カザフスタン国民の雇用も問題ない。ルーブルで処理できる。数千人、いや一万人規模になったとしても、国家が安定すれば十分に吐き出すことのできる額だ)


計算できるコストは、問題ではない。だが、残りの二つは違う。

技術移転と、環境除染。これは、単純な経済論からはるかに逸脱する。


除染のコストは、正直なところ、誰にも分からない。ソビエトという国家は、自らが大地に与えた傷跡のカルテなど、まともに残してはいないのだ。それは底なしの沼になる可能性がある。

そして技術移転。それは金の問題ではない。国家の安全保障そのものだ。軍事転用可能なロケット技術を、他国に渡す。それはロシアの牙を自ら分け与えるに等しい。


(なぜだ。なぜ、この男は、今このタイミングでそれを口にしてきた)


ヴィクトルは、目の前で静かに茶をすするナザルベフを凝視した。

この要求は、本来であればエリツォン本人を前にして、国家対国家の公式な場で突きつけるべき性質のものだ。


少なくとも、ロシア共和国議長の『承認』という建前がなければ、安全保障に関わる話など進められるはずがない。だが、彼は今、この非公式な場で、一介の実務官僚に過ぎない自分に、それを要求してきた。つまり、これは…。


「…私たちが、あなた方を『対等なパートナー』として見なければ、この話は収まらない。そういうこと、ですか」


ヴィクトルは、呟くように言った。それは質問ではなく、たどり着いた結論の確認だった。

ナザルベフは答えなかった。ただ、その口元に浮かべた穏やかな笑みが、全てを肯定していた。

その瞬間、ヴィクトルの脳裏に、ソビエト連邦という国家の、見えざる構造図が浮かび上がった。


最新技術は、まずロシア人に。次にウクライナやベラルーシのスラブ系同胞、あるいは西側への窓口であるバルト三国の民へ。ソビエトの科学技術の栄光は、常に彼らが担い、優遇されてきた。

そう、中央アジアの、カザフスタンの民ではなかった。


「民族の友情」という美しい建前の下に、あまりにも公然と存在した差別と格差。ナザルベフが今求めているのは、その歪な構造そのものの是正だった。リース料や雇用ではない。金で買えるものではない、『敬意』と『尊厳』。


ソビエト連邦が、建国から七十年間、彼らに与えてこなかったもの。彼はその”勘定”を、この国家解体の場で、ロシアに支払えと要求しているのだ。ヴィクトルは、自らが提示した『離婚協定』が、いかに傲慢なものであったかを思い知った。


この”微笑みの男”は、その全てを見抜いた上で、さらにその上を行く、真の”勘定書”を突きつけてきたのだ。

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