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微笑みの男

保養施設の簡素な一室で、ヴィクトルは目の前の男と対峙していた。


“微笑みの男”。

アスカル・ナザルベフを知ったときにヴィクトルが感じたのはそれだった。

雰囲気は決して柔らかくない。だがその佇まいは誠実で、誰にも肩入れしないが誰一人として敵に回さないという絶妙な均衡の上に成り立っている。

そして自らが守るべきものを決して手放さない鋼のような意志。


カザフスタンはロシア・ソビエトの負の歴史を色濃く背負った土地だ。

帝政時代の流刑地であり、ホロドモールでは突出した破壊、人口4割を失う虐殺を受けた。

その後の強制移住で民族の尊厳を踏みにじられ、最後には核実験の舞台となった。

本来であればウクライナと同時期に、あるいはそれ以上に激烈な分離独立運動が起きてもおかしくはなかった。

それをただ一人で抑え込んだのが、目の前にいるこの男だった。

彼は民族の熱情を煽るのではなく経済的な安定と秩序を説き、自らの共和国を巧みに統御していた。


ヴィクトルはまず訪問に対し感謝を示し、会談の席を設けてくれたことへの礼を述べた。そしてごく自然にテーブルの下座へと腰を下ろそうとした。

その瞬間ナザルベフが穏やかな、しかし有無を言わさぬ声でそれを制した。


「ペトロフ同志。ここはクレムリンの会議室ではない。階級で座る場所を決めるのはやめましょう。対等な立場で話がしたい」


その一言でヴィクトルは悟った。

目の前の男は自分の正体を完全に見抜いている。エリツォンの威光を借りた使者としてではなく、モスクワの中枢を実質的に動かす官僚、その本人として自分を見ているのだ。

なんと柔軟で現実的な男か。それがアスカル・ナザルベフという男だった。


勧められるまま対面の椅子に腰かけると、ナザルベフは自ら質素な陶器のポットを傾け、ヴィクトルのカップに茶を注いだ。その所作には一切の無駄も気負いもなかった。


「ウクライナでの君の仕事ぶりは聞いている」


ナザルベフは静かに切り出した。


「実に…鮮やかだったそうだね。キエフの同志は今頃頭を抱えているだろう」


その声に皮肉はなかった。ただ事実を確認するような響きだけがあった。


「私は私の仕事をしたまでです。国家の秩序をこれ以上の混乱から守るために」


ヴィクトルは探るように答えた。


「秩序、か」


ナザルベフはふっと微笑んだ。


「私も同感だ。混乱は何も生まん。私の下にもいるのだよ、モスクワからの完全な独立を叫びロシア人を追い出せと息巻く連中がね。だが彼らに国は治められん」


彼はカップを置き、ヴィクトルの目をまっすぐに見た。


「我々の工場はウラルの工場と繋がっている。我々の畑でとれた小麦はシベリアの民を養う。そして我が国の北部には数百万のロシア人が暮らしている。この繋がりを断ち切ることは我々にとっても自殺行為だ」


それはヴィクトルが予想していた通りの言葉だった。だが続く言葉は彼の予想をわずかに超えていた。


「だからこそ私は君と話がしたかった。エリツォン議長は偉大な政治家だが、彼は夢を語る人だ。我々が今必要なのは夢ではなく現実的な勘定書だ。君はその書き方を知っている」


ナザルベフは交渉の主導権をヴィクトルに渡すかのように、静かに両手をテーブルの上で組んだ。


「さあ、聞かせてくれたまえ。君が書いた我々カザフスタンのための『勘定書』を」


ヴィクトルは目の前の男を見据えながら、頭の中で高速で情報を整理する。


利益を、というわけではないはずだ。この男は自国の資源だけでいずれは豊かになれることを知っている。

だが理想や理念でもない。彼はソビエトという亡霊に感傷を抱く男ではない。

彼が欲しがっている勘定書はおそらくは…「未来の保証」。明日も今日と同じルールで商売ができるという確かな保証だ。


「同志」


ヴィクトルは探るように静かに話し出した。


「ソビエトを残されたいと、そうお思いですか?」


その問いにナザルベフはかすかに、しかし確かな笑みを浮かべた。その目は「何を今更」と語っていた。


「なぜかな、ペトロフ君。それは我々の会話の当然の前提だと思っていたが」


そうだ。それはいまだうつろな皮として残っている祖国(ソビエト)における、絶対的な『建前』だ。

連邦の存続を願うこと。共和国の指導者である以上、ナザルベフもそう言わなければならない。本心はどうあれ。


一瞬、二人の目線が交差する。言葉にならない理解が静かな部屋を行き交った。


カザフスタンは国境を接する数百万のロシア人を恐れているのではない。

彼らが本当に恐れているのは、秩序が崩壊したときに出現するであろう”剥き出しの暴力”としてのロシアだ。

予測不能で理不尽な力で、三百年の歴史の清算とばかりに全てを奪い去りかねない混沌の化身。

ナザルベフが求めるのは、その混沌を封じ込めるための新たな秩序の設計図だった。


ヴィクトルはその目に応えるように、わずかに身を乗り出した。


「では我がロシア共和国としての立場を明確にいたします」


声のトーンが実務的なものに変わる。


「各国が独立した際、私たちロシア共和国は共同経済圏の設立を提唱します。そしてその中核として、各共和国の主権が尊重される平等のテーブルで、現在のライフライン、そして物流網の保持を目的とした共同議会を設置する」


ヴィクトルはそこで一度言葉を切り、ナザルベフをまっすぐに見つめた。


「ロシアはその共同体を全力で支持いたします」


それはナザルベフが聞きたかった一つの答えだった。

支配でも併合でもない。主権の尊重と経済的相互依存。

かつてのソビエトが『兄弟』という名の支配で縛り付けたものを、対等なビジネスパートナーとして再構築するという提案。


ナザルベフの顔から笑みが消えた。代わりに真剣な商人の顔がそこにあった。

彼はゆっくりと頷いた。


「素晴らしい提案だ、ペトロフ君。理想的な未来像だ」


彼の声は静かだった。


「…ではその理想的な未来のために、我がカザフスタンが支払うべき『勘定』と、そしてロシアが我々に支払うべき『勘定』について具体的な話を始めようか」


彼はテーブルの上に一枚の地図を広げた。カザフ・ソビエト社会主義共和国の地図。

そしてその中央に位置する一点を、指で静かに示した。


「例えばこのバイコヌールから」

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