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剥がれた仮面

この話で出てくる南西方面軍という俗称は、史実ではないのでご注意ください(小説的な都合でつけてます)。※通常は軍管区単位で呼ばれていました。

「なにを…何を馬鹿なッ!」


冷静さを保っていたはずのクラフチェンコは、思わず怒鳴り声をあげていた。彼は椅子から立ち上がり、机に両手をついた。その顔は、怒りと信じられないという表情で歪んでいた。


「貴様はッ! ソビエト連邦最大の方面軍である、南西方面軍を、このウクライナという一地方共和国だけで支えろと! そう言っているのか!」


ウクライナに駐屯するソビエト軍は、数十万の兵員と、数千両の戦車、そして戦術核兵器までを保有する、欧州最強の軍事集団だった。キエフ軍管区、オデッサ軍管区、沿カルパチア軍管区という3つの軍管区を束ね、通称「南西方面軍」と呼ばれるこの巨大戦力。その食費、燃料費、給与、兵器の維持費は、天文学的な数字に上る。


それを、経済が破綻寸前のウクライナだけで負担しろというのか。


それは、死刑宣告に等しかった。


ヴィクトルは、立ち上がったクラフチェンコを、椅子に座ったまま静かに見上げていた。その顔には、何の感情も浮かんでいない。


「お言葉ですが、議長」


彼は、まるで他人事のように、淡々と告げた。


「これはウクライナ一国だけの話ではございません。連邦の財政が事実上破綻した現在、全ての共和国が、自領内に駐留する軍の費用を、自らで負担することになります。ベラルーシも、カザフスタンも、そして我々ロシアもです」


それは、あまりにも理路整然とした、反論が難しい理屈だった。


ウクライナが、連邦の一部であるというのなら、その負担を分担するのは当然だ、と。


「無論、不可能であることは承知しております」


ヴィクトルは続けた。


「ですが、これは決定事項です。通達の通り、来月分の送金から、停止させていただきます」


クラフチェンコは、言葉を失った。


目の前の男は、たった一枚の紙切れで、ウクライナの首に縄をかけたのだ。このままでは、数十万の飢えた兵士が、ウクライナの地で暴徒と化すだろう。それを防ぐには、独立を宣言し、彼らを「外国軍」として追い出すか、あるいは…。

彼の顔を眺めながら、ヴィクトルは、静かに次のカードを切る準備をしていた。



ヴィクトルは、仕事が終わったとばかりに、ゆっくりと席を立った。


クラフチェンコの怒声も、その後の絶望に満ちた沈黙も、彼にはもはや関係ないようだった。


クラフチェンコが、射殺さんばかりの視線で彼をにらむ中、ヴィクトルはドアへ向かう途中でふと足を止め、思い出したかのように振り返った。そして、そっと言葉を発する。


「ああ、伝え忘れておりました、議長。無論、ソビエト政府はただで軍を維持しろとは申しておりません。どうか、その書類を最後までお読みください」


クラフチェンコは、苛立たしさを隠さず机の上の書面に目を滑らせた。通達の末尾に、小さな文字で付帯条項が記されている。


ソビエト連邦政府統帥部は、計画経済の円滑な進捗のため、以下に定める権限をウクライナSSR政府に一時的に譲渡する。


1. 駐屯軍の軍事編成に関する一部権限

2. 管理下にある通常兵器の管理数調整

3. 余剰と判断された兵器の限定的な武器輸出権限

4. 自活するための、軍人の一時的な民生部門への転用


クラフチェンコは、その一文一文を、信じられないという思いで読み返した。そして、震える唇で、歯を食いしばりながら呟いた。


「つまり、これは……」


軍隊の編成権。兵器の管理数、つまりは事実上の軍縮の権限。そして、余った武器を売って金に換える権利。兵士を労働力として使う権利。


それは、負担であると同時に、これまでモスクワが絶対に手放さなかった、軍隊に対する絶対的な統帥権の、一部放棄を意味していた。


ヴィクトルは、静かに頷いた。


「そうです、議長閣下。ご理解の通り、ソビエト政府はウクライナSSRに対し、この件に関しては、完全な自由裁量を与えました」


どうぞ、ご自由に。あなた方の領内にいるその巨大な軍隊を、解体するなり、自分たちの国軍として再編成するなり、武器を売り払って糊口をしのぐなり、お好きになさい、と。


それは、ウクライナに主権を分け与えているように見せかけながら、ソビエト連邦軍の解体という、最も汚れており面倒な仕事を、ウクライナ自身に押し付けるという、悪意に満ちた提案だった。


「『この件に関し』、だと?」


クラフチェンコは、ヴィクトルの言葉尻を捉え、鋭い視線を向けた。その声は、先程までの怒声とは違う、氷のように冷たい響きを帯びていた。


「貴様、わかっているのか。これは、中央政府による義務の不履行だ。各共和国が勝手に軍をいじくり始めれば、NATOに対する統一された抑止力など、到底維持できない!」


それは、ソビエト連邦の一指導者として、至極真っ当な反論だった。


だが、ヴィクトルは悪びれる様子もなく、ただ小首をかしげた。


「何をおっしゃっているのか、私にはわかりかねます」


その、あまりにもわざとらしい、白々しい態度。それを見た瞬間、クラフチェンコの頭を、ある恐ろしい疑念が貫いた。彼は、急激に現実へと引き戻される。


まさか…まさか、こいつは…


「貴様…! 中央政界は、我々の動きを『知っている』と、そう言いたいのか!」


8月19日のあの騒乱(ヤトフ元帥の乱入事件)の前後、モスクワの中央に明らかな不安定化を感じ取った彼は、最悪の事態に備えて、水面下で手を打っていた。いざというときのために、キエフに最高会議ラーダの議員たちを招集していたのだ。モスクワでクーデターが起きるか、あるいはエリツォンが暴走するか、何かあれば、その場でウクライナの独立を審議し、宣言すら可能なように。


それは、ウクライナ指導部だけが知る、最高の機密のはずだった。


だが、目の前の男の今日の提案は、まるでその動きを読んでいたかのような、完璧な先手だった。ウクライナが独立を宣言する前に、軍という巨大な爆弾を、ウクライナ自身の足元に転がしておく。


ヴィクトルは、クラフチェンコの血走った目を見ても、表情一つ変えなかった。ただ、静かに首を振った。


「申し訳ありませんが、私はただの小間使いですので」


そのあまりにふざけた、見え透いた嘘の反応に、クラフチェンコの堪忍袋の緒が、ついに切れた。


バンッ!!!


彼は、机を叩き割らんばかりの勢いで、両の手を叩きつけた。重厚なオーク材のテーブルが、悲鳴のような音を立てて大きく揺れた。


全て、読まれている。自分たちの最後の切り札さえも、このモスクワから来た若き悪魔には、全てお見通しだったのだ。


「何が狙いだ…。一体、何が…!」


クラフチェンコは、嫌悪と怒りで、自らの唇をかみ切らんばかりだった。血の味が、口の中に広がる。


「貴様ッ…! これが同胞に、共にナチスと戦い、血を流してきた同胞に対する態度か! 我々ウクライナは、ソビエトの剣として、常に最前線で戦ってきた! それを…貴様…ッ!」


言葉にならない怒りが、彼の喉を詰まらせた。


その時だった。


「議長」


ヴィクトルの静かな声が、クラフチェンコの激昂を切り裂いた。


クラフチェンコが顔を上げると、そこにいたのは、もはや白々しい笑みを浮かべた官僚ではなかった。ヴィクトルは、被っていた仮面を、完全に剥ぎ取っていた。


その瞳には、祖国の未来を憂う深い苦悩と、そして全てを計算し尽くした策謀家の、底冷えのするような光が宿っていた。


「では、お話をしましょう、議長。小手先の駆け引きではありません」


ヴィクトルは、椅子に再び座り、クラフチェンコと視線を合わせた。それは、対等な国家の指導者同士の対話の始まりだった。


「ソビエトの未来について。ウクライナとロシア、いや、それだけではない」


彼は、ゆっくりと言葉を区切った。


「我々の、あるべき姿について」


その言葉は、もはや脅迫でも、恫喝でもなかった。

ただ、一つの時代が終わり、新たな秩序を、自分たちの手でゼロから作り上げなければならないという、厳粛な現実。ヴィクトルは、その巨大な課題を、レオニード・クラフチェンコの前に、静かに提示しているのだった。

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