第三部-2 国民の口
「では今の牛舎の話から聞かせてください」
ヴィクトルがそう促すと、ザヴェリンは丸めた書類を膝の上で広げた。
「ロシアだけで牛は5000万頭を超えてる。そのうち乳を搾るのはおよそ3分の1で、残りは肉にするための牛だ。冬の間は牛舎で飼うしかないから、秋から春まで半年以上干し草と穀物を食わせ続けることになる。今年は夏が寒すぎて、クバンもヴォルガも麦の出来が悪い。このままじゃ冬の半ばで飼料が尽きる牛舎がいくらでも出てくる」
「その飼料の穀物がそもそも足りていないんです」
フリスチンがファイルを開いて言葉を継いだ。
「国内の麦だけではとてもこれだけの牛を養えません。ソ連の時代から毎年何千万トンもの飼料用の穀物を、アメリカやカナダから外貨で買い入れてきました。牛は1キロの肉を作るのに10キロ近い飼料を食べます。豚ならその半分以下、鶏ならさらにその半分で済む。それなのにこの国の畜産は一番燃費の悪い牛を柱にしてきたんです」
「燃費だの効率だの、学者先生はすぐにそれだ」
ザヴェリンが鼻を鳴らしたが、言い返しはしなかった。フリスチンの言うことが間違っていないのは、彼が一番よく知っているのだろう。
ヴィクトルは黙って二人の話を聞いていた。
この国の肉がどういうものかは、彼も自分の舌で知っている。大統領府の官舎の食堂を毎日のように行き来していれば、嫌でも分かることだった。皿に載るカツレツはいつも同じ形をしていて、中身は筋の多い灰色の挽き肉だ。たまに出る牛肉の煮込みはよく煮込んでも歯が負けるほど固い。国の中枢の食堂でさえこうなのだから、地方の店の棚に並ぶ肉がどんなものかは想像がついた。国は毎年外貨を払ってこういう肉を作り続けてきたのだ。
「副長官」
ザヴェリンが書類から顔を上げた。
「今の仕組みがもたんことくらい、わしだって分かってる。穀物を外から買って、牛に食わせて、国が補助金で損を埋める。こんなことを続けてたら国が干上がる。それは認めるよ」
彼は大きな手を膝の上で握った。
「だがな、それでも牛を潰せば牛舎で働いてる人間は明日から路頭に迷う。そいつらは政府を恨む。職業訓練だの転職だの、モスクワの人間は簡単に言うが、そんなものを地方で受け入れる準備はどこにもできちゃいない。それに村の人間は村に家があって、畑があって、墓があるんだ。都会に出ていけば済むって話じゃない」
ザヴェリンは身を乗り出した。
「副長官、あんたは黒土地帯の津々浦々、全部の村に訓練所と新しい職場を用意してくれるってのか」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
できるはずがない、と彼は頭の中で認めた。黒土地帯だけでも村の数は何万とある。そのすべてに訓練所を建て、新しい工場を誘致し、教える人間を送り込むことなど、今のこの国の財布では夢物語だった。
だが何もしなければどうなるか。コルホーズを支える補助金は、結局のところ国庫が刷る金で賄われる。飼料を買う外貨はルーブルを売ってドルを買うことで手に入れている。どちらもルーブルの値打ちを内側から削り、物価を押し上げていく。値上がりに一番敏感なのは給料で暮らす都市の人々だった。今は政府を支えている都市の6割の支持も、パンと肉の値段が上がり続ければいずれ離れていく。
農村を守るために仕組みを残せば、都市を失う。仕組みを壊せば、農村を失う。どちらを選んでも、どこかで誰かが政府に背を向ける。
「全部の村に、とはお約束できません」
ヴィクトルは正直に言った。
「ですが何もしなければ、あなたの村だけでなくこの国の全部の台所から肉が消えます。都市の人間もいずれ同じように生活が成り立たなくなり路頭に迷う」
ザヴェリンは口をつぐんだ。フリスチンも何か言いかけてやめた。
その後もしばらく三人の間で言葉のやり取りが続いた。ザヴェリンは冬を越すための緊急の飼料の手当てを求め、フリスチンはこの機会にコルホーズの改組を一気に進めるべきだと言い張った。ヴィクトルはどちらの言い分にも半分だけ頷き、半分だけ首を振った。
日が傾き始めた頃、ヴィクトルは二人に宿題を出した。ザヴェリンには冬の飼料が尽きそうな地域と村の一覧を。フリスチンにはコルホーズを協同組合に作り替える場合の手順と費用の見積もりを。
「2週間後にもう一度ここで」
二人は不承不承といった顔で立ち上がり、今度は先を争うこともなく並んで執務室を出ていった。
扉が閉まると、アレクサンドロフがようやくコーンパイプのたばこに火をつけた。チェルノフが窓を少しだけ開け、冷えたコーヒーを新しいものに替えにいく。
「お前はどう思う、フョードル」
ヴィクトルが訊くと、チェルノフはカップを置いてから少し言いにくそうに口を開いた。
「実は先週妻と外に食事に行ったんですが」
アレクサンドロフが面白そうに眉を上げた。チェルノフは少しだけ耳を赤くしながら続けた。
「結婚記念日で少し奮発してアルバート通りの店に入ったんです。献立を見たら、牛肉の料理だけが去年の倍近い値段になっていました。妻は結局、鶏の料理を頼みました。私も同じものにしました。ところがその鶏がひどく痩せていて、骨ばかりで」
彼は小さく苦笑した。
「妻に言われました。この国では、いい肉は高すぎて、安い肉は食べるところがないのね、と」
アレクサンドロフは煙を吐きながらゆっくりと頷いた。
「値段が上がりつつあるのはそこらの店の献立がよく知っている。我々の統計より早いくらいだ」
彼は灰皿に煙草を置き、ヴィクトルの方を向いた。
「ペトロフ君。肉牛はやはり無理だ。どう計算しても飼料の量が多すぎる。外貨で穀物を買い続ける限り牛肉は高くなる一方だし、国内の麦だけで同じだけの牛を養う日は来ない」
「では何を柱に」
「やはり鶏と豚だろうな」
アレクサンドロフは即答した。
「飼料が少なくて済み、育つのも早い。国内の麦で賄える範囲で肉の量を確保できる。ただし今の国営の養鶏場の痩せた鶏では、フョードルの奥さんの言う通り食べるところがない。量を増やすのと同じだけ肉の質も上げなければならん。西側の育種と飼い方を入れる必要がある」
彼は少しだけ間を置いた。
「それからこれが一番難しい。国民の頭の中を動かすことだ。我々ソ連の人間にとってご馳走といえば牛肉だった。祝いの席に鶏を出すのを、どこか貧しいことのように感じる人間は多い。その意識ごと変えていかなければ、いくら鶏を増やしても人は高い牛肉を欲しがり続ける」
ヴィクトルは新しいコーヒーに口をつけ、窓の外に目をやった。夕暮れのクレムリンの尖塔の向こうに、灰色の雲が低く垂れこめていた。
牛を減らし、鶏と豚を増やし、その質を上げ、人の舌の好みまで変えていく。どれ一つとっても数年で済む話ではなかった。
「鶏から始めましょう」
ヴィクトルは静かに言った。
「アメリカには国内で使い道のない鶏のもも肉が余っていると聞きます。彼らはそれをいずれ我々の市場に売りつけに来る。その前に彼らの養鶏会社の方をこちらに呼び込めばいい」
アレクサンドロフはパイプをくわえたまま、にやりと笑った。




