第三部-3 ルイセンコ
1994年9月の半ば、モスクワから北へ向かう街道の両脇では、白樺の葉がもう黄色く色づき始めていた。冷たい夏を引きずったまま季節だけが先へ進んでいくような、ちぐはぐな秋だった。
後部座席でヴィクトルは膝の上の書類を閉じた。先週大統領府を訪れたアメリカの養鶏会社の役員たちが置いていった提案書だった。南部に本社を置く大手で、ロシア国内に飼育場と処理工場を建て、親鳥となる種鶏を本国から送り込むという。条件は悪くない。肉は1年もすれば店の棚に並ぶだろう。
ただし提案書のどこを探しても、その種鶏のさらに親にあたる原種の鶏については1行も書かれていなかった。原種は本国の農場で厳重に管理され、決して外へは出さない。育った鶏から卵を取っても同じ鶏は生まれない。交配種とはそういうものだった。ロシアは毎年毎年、親鳥を買い続けることになる。
彼はかすかに指に力を込めた。ただの消費地に対しての投資、お情けということだ。
「浮かない顔だな、ペトロフ君」
隣でアレクサンドロフが窓の外を眺めたまま言った。
「首輪の形がよく見えるもので」
ヴィクトルの言葉にアレクサンドロフはうなずいた。
「それが彼らなりの譲歩というわけだ。今最も空白の更地であり、消費地である我々への」
「わかっています。これが中小国であればこの譲歩すらないことも」
ヴィクトルの口から苦い言葉が出た。そこで助手席のフリスチンが振り返った。
彼の目には焦燥感が満ちていた。
「副長官、だからこそ今日の場所を選んだんです。国が持っている育種の現場が今どこまで来ているのか。いえ、どこで止まっているのかを見ていただきたいのです。我々が、我々の足で立てるかを」
三人の会話の間に車はやがて街道を外れ、ドミトロフの郊外へ入っていった。畑の向こうに灰色の低い建物が何棟も並んでいる。国営の養鶏コンビナートだった。70年代の半ばに建てられ、当時はモスクワ州でも指折りの規模を誇ったと聞いている。
正門の前で一人の男が待っていた。50代の半ばくらいだろうか。くたびれた白衣の上に作業用の上着を羽織り、長靴には鶏舎の土がこびりついている。男は車から降りたフリスチンに会釈し、それからヴィクトルに向き直った。
「育種部長のグレブ・ソロヴェイです。わざわざこんな田舎までようこそ」
「ペトロフです。今日は見せていただくだけです。取り繕う必要はありません」
ソロヴェイは少しだけ顔を曇らせ、彼らを連れて歩き出す。
「本当に取り繕えるものがあれば、とうにそうしていますよ」
鶏舎の中は暗く、むっとする熱と臭いがこもっていた。天井の換気扇は半分しか回っておらず、残りは羽根が止まったまま埃をかぶっている。床には白い鶏が隙間なくひしめき、給餌器の前で押し合っていた。
ヴィクトルは足を止めた。鶏が小さいのだ。チェルノフの妻が嘆いたという痩せた鶏を、彼は初めて自分の目で見ていた。
「この群れは孵化から何週目ですか」
「9週目です」
ソロヴェイは淡々と答えた。
「出荷はあと2週か3週先になるでしょう。目方が2キロに届くまでそれくらいかかります。西側の農場なら同じ目方に6週か7週で届く。しかも餌も向こうは1キロの肉に2キロ少々で済むところを、うちは3キロ以上食わせている。食わせないと生育しないのです」
ソロヴェイは止まった換気扇を見上げた。
「設備はハンガリーから入れたものです。75年の型ですね。部品はもう向こうでも作っていない。うちの整備工が旋盤で削り出して、どうにか回しています。回っていない分は削り出す鉄も足りなかったということです」
「設備を新しくすれば差は縮まりますか」
ヴィクトルが訊くとソロヴェイはすぐには答えなかった。群れの中に手を伸ばし、一羽の鶏を慣れた手つきで抱き上げる。胸を指で押し脚を確かめ、静かに床へ戻した。
「少しは縮まるとは思います。換気がよくなれば病気が減る。餌をきちんと量れれば無駄が減る。ただ」
ソロヴェイは手についた羽毛を払った。
「この鶏はもともと速く育つようにできていないんです。いくら良い家に住まわせても生まれ持った体は変わらない。この差の半分は機械で、残りの半分は血統の差なんです。我々が最も不得意としている、ね」
鶏舎を出ると、ソロヴェイは一行を奥の孵卵場へ案内した。棚のように積み上げられた孵卵器が低い唸りを上げている。どれも旧東ドイツの工場で作られたものだった。
「この孵卵器を作った工場はもうありません。国ごとなくなりましたから」
つぶやきともつかない声色でそう言うと、ソロヴェイは孵卵器の扉を軽く叩いた。
「壊れたら部品の当てはない。それでもこいつらは文句も言わずに20年働いてくれています。人間より律儀なくらいですよ」
育種部の事務室は鶏舎の隣にある古い平屋だった。机の上には手回しの計算機がまだ置かれている。ソロヴェイは来客用の椅子を3脚かき集めて並べ、自分は窓際の机に浅く腰をかけた。
「血統の差の話をもう少し聞かせてください」
ヴィクトルが言うと、ソロヴェイは窓の外の鶏舎を見やった。
「西側の大手は戦後すぐから何万羽という鶏の記録を、一羽ずつ取ってきました。どの親から生まれたか、何日でどれだけ太ったか、どれだけ餌を食ったか。その数字を統計で処理して一番いい血筋だけを次の世代に残す。それを40年、毎年休まずに繰り返してきたんです。今の向こうの鶏はその40年の積み重ねでできている」
ヴィクトルは壁の棚に目をやった。色の褪せたファイルの背表紙には年号だけが手書きで記され、1970年から今年まで1冊も欠けずに並んでいる。
「あれは」
「私が日々とってきた記録です」
ソロヴェイは少しだけ照れたように言った。
「この農場の鶏を一羽ずつ。誰に命じられたわけでもありません。統計の道具も満足にないので、半分は手回しの計算機と算盤でやりました」
「では40年の差のうち、24年分はここにあるわけですね」
ソロヴェイは虚を突かれたように瞬きをし、それから首を振った。
「年数だけなら、ですね。向こうは同じことを何十万羽でやっている。私がやれたのは数千羽です」
「なぜ数千羽で止まったのです」
「私たちがその前の何十年か、遺伝子などというものは存在しないと教わっていたからですよ」
ソロヴェイの声は静かだった。いや、何かがかすかに混じっている。それは悲哀だった。
「私は1957年に農業大学に入りました。習ったのはルイセンコのミチューリン生物学です。生き物の性質は環境で作り変えられる。遺伝子はブルジョワの作り話で、統計で育種を語る者は観念論者だと。試験にはそう書かなければ落第しました」
同席しているアレクサンドロフが表情を改めた。ソロヴェイは続けた。
「本物の遺伝学に触れたのは卒業して何年も経ってからです。65年にルイセンコが失脚して、ようやく教科書が書き換えられた。私はその時もう25歳でした。メンデルの法則を、大学を出た男が一から学び直したんです。誰もがうすうす気づいていたことを、今更大真面目にひたすら詰め込んだ」
ヴィクトルは一瞬迷った。意味のない質問かとも思ったが、吐き出せた方がましだと判断し彼に尋ねた。
「あなたは、これは誰の責任だと考えていますか」
フリスチンが驚いたように顔を上げたが、ソロヴェイは動じなかった。
「一人の名前で済むなら楽なんですがね」
彼は指を折り始めた。
「最初はスターリンです。ヴァヴィロフ先生を40年に捕らえ、43年に獄中で死なせた。48年には農業科学アカデミーの総会で遺伝学そのものを禁じました。あの総会の後、全国の研究所から何千人という研究者が職を追われています。私の師もその一人でした。師は職を追われた後、数十年にわたって畜産分野に戻ることはできなかった」
2本目の指が折られた。
「次はフルシチョフです。彼はウクライナの党を率いていた頃からルイセンコを庇っていた。ルイセンコの根城はオデッサの研究所で、キエフはあの男の成果を自分たちの権威の裏付けとして使いました。逆らった研究者を追い出す口実にもした。モスクワはそれを咎めるどころか、フルシチョフが中央に上がるとそのまま国中に広げたんです。64年に失脚するまで、彼はあの男を守り続けました」
ソロヴェイは3本目の指を折った。
「そしてブレジネフです。ただ公平に言えば、彼の時代に遺伝学は名誉を回復しました。それは確かです。けれど回復させただけで、金も人も回さなかった。失われた年月を取り戻す代わりに、足りない肉と餌は外国から買えばいいと考えた。研究所を建て直すより穀物を輸入する方が楽だったんでしょう」
ソロヴェイは折った指を見下ろし、それから力なく開いた。
「キエフもモスクワも、党も政府も、誰もが少しずつ手を汚した。だから誰も責任を取らなかった。それがこの国のやり方でしたよ」
事務室に沈黙が落ちた。結局は当時党を切り回した人間すべてが共犯だった、この愚劣な行為の。
結果、この部屋にいる全員が知っているように国家の畜産業は破綻し国は飢えかけた。餓死者を避けえたのは、91年の国家分裂でフリーハンドを得たためにすぎなかった。
そこで窓の外で鶏舎の換気扇が一つ、軋んだ音を立てて止まった。ソロヴェイはそれを見て小さく笑った。呆れと、諦めだった。
「副長官。正直に申し上げましょうか」
「どうぞ」
「私はこのコンビナートの育種部長で、この国の家禽育種ではまあ名の通った方です。学会では上座に座らされることもある」
彼は自分の胸を指で軽く叩いた。
「ですがもし私がアメリカや欧州の研究機関にいたなら、おそらく中堅どころでしょう。論文は読めても、彼らと同じ速さでは走れない。私たちの世代は、走り方を教わる前に足を縛られていたんです」
自嘲だった。だがその目は笑っていなかった。ヴィクトルはその目の奥にあるものを知っていた。自分の仕事が世界からどれだけ遅れているかを、誰よりも正確に知っている者の目だった。
「ソロヴェイさん」
ヴィクトルは膝の上で手を組んだ。
「先週アメリカの養鶏会社が大統領府に来ました。種鶏を送り込み、ロシアに工場を建てると言っています。受け入れれば来年には店の棚に肉が並ぶでしょう」
ソロヴェイの顔から笑みが消えた。彼は一瞬唇をかむと、はっきりと言い切った。
「受け入れるべきです」
意外なほどはっきりした返事だった。フリスチンが目を丸くした。
「今の国民に、私たちの鶏が育つまで待てとは言えません。肉は確実に要る。育種部長として悔しいが、それは認めるしかない」
彼は少しだけ言葉を切った。
「ただし副長官。米国の畜産会社の鶏を入れたら、この国では誰も親鳥を作らなくなります。作る必要がなくなりますからね。10年もすれば、この国で家禽の血筋を読める人間はいなくなる。そうなったら値上げをされても輸出を止められても、私たちには何もできません」
「首輪がつくと?」
ヴィクトルが言うと、ソロヴェイは驚いたように彼を見た。
「……そのとおりです」
ヴィクトルはうなずいて立ち上がり窓辺に歩み寄った。いつものように、空の光はかすかだった。彼はしばし黙り、そして振り返った。
「肉は買い、首輪も一度はつけるしかない。だがそれを外すための鍵はこちらで作る。ソロヴェイさん、その鍵を作れる人間はこの国にどれだけ残っていますか」
ソロヴェイは長いあいだ黙っていた。
「家禽だけなら、本当に使える者は数十人でしょうね。若い連中の多くはもう西側の大学か研究所にいます。分子生物学の方へ流れた者も多い。ここに残っているのは、私のように縛られた足で走ってきた年寄りばかりです」
「では呼び戻す、我々ができる手をもって」
ヴィクトルは手を閉じた。力を込めて握りこむように。
「足を縛られずに走ってきた人間も外から連れてきましょう。あなたが中堅だと言うなら、その中堅が一番上に立てる場所を作ればいい」
ソロヴェイは何か言いかけて口を閉じた。代わりに眼鏡を外し、白衣の裾で丁寧に拭った。
帰りの車の中で、フリスチンはずっと手帳に何かを書き続けていた。ヴィクトルは窓の外の黄色い白樺を眺めていた。
「ペトロフ君」
隣のアレクサンドロフがようやくコーンパイプに火をつけた。紫煙がゆっくりと車内に広がっていく。
「呼び戻すと言ったな。鶏の話だけで済ませるつもりはあるまい」
「ええ。鶏も麦も牛も、根は同じですから」
「ならば来週、ペテルブルクへ行くんだ」
老官僚は窓を少しだけ開け、煙を外へ逃がした。
「あの街には、種を食べずに死んでいった連中が守った研究所がある。この国が何を失い、それでも何を残したのか。それを見てから人を口説いても遅くはない」
ヴィクトルは黙って頷いた。車は街道へ戻り、モスクワへ向かう車の列に加わった。後ろの窓の向こうで、灰色の鶏舎がゆっくりと小さくなっていった。
本話で触れたルイセンコ主義について、少し補足します。
これは遺伝子の存在を否定し、環境によって獲得した性質が遺伝すると唱えた疑似科学です。ソ連では1930年代から勢力を伸ばし、1948年には国家公認の学説となりました。1965年に遺伝学が復権するまで、正統な研究と教育は厳しく抑圧されました。
1948年国家公認と並列して発生した弾圧は、ルイセンコが1946〜47年の飢饉からの増産を約束しながら果たせなかった直後に起きています。彼は失脚するどころかスターリンの承認を得て勝利し、対立した研究者たちは解職や降格、指導的地位からの排除を受けたのです。
その数は数千人に及んだとされます。それ以前にも研究者への迫害は進み、ロシア側の知的人材である世界的な植物学者ヴァヴィロフは1943年に獄中で餓死し、彼の関係者は迫害されました。壊されたのは研究室だけでなく、研究者を育て知識を次代へ渡す仕組みそのものでした。
影響は東欧や中国にも広がりました。中国の大躍進では、ルイセンコ主義の影響を受けた過密な植え付けなどが農業の失敗に拍車をかけました。この時期の大飢饉の死者は推計で1500万〜4500万人と幅があり、約3000万人とするものが多く見られます。ただし国ごとの差は大きく、共産圏の生物学が一様に停止したわけではないことも事実です
これは「ルイセンコが直接的に殺した人数」では確かにありません。飢餓は過大な収穫報告、過酷な穀物徴発、農業労働力の転用、救済の遅れなどが重なった災害で、彼の学説だけに死者の何割を割り当てられるかは学術的に統一した結論をされていません(収穫量は絶望的ですが確定した資料がない)。
それでも責任が薄くなるわけではありません。誤った農法を広め、その誤りを指摘できる研究者を排除する。国家権力と結びついた疑似科学は、失敗を生むだけでなく、失敗を修正する力まで壊したのです。
※ちなみに今のロシア政府はこの経験および90年代に西側の消費地扱いで飢えた経験をもとに動いているので、異常なほど農業や畜産に熱心です(消費地扱いについてはNozhki Bushaで興味があればどうぞ)。国家産業として扱われており、おおよそ自国だけで自給し、不足は同盟国のみで完結させています。なにより国民を飢えさせないことを第一において運営されています。




