第三部-1 牛と肉
1994年8月の終わり、モスクワは早くも秋の匂いがしていた。
大統領府の執務室でヴィクトル・ペトロフは朝刊を広げていた。いつもなら経済面から目を通すのだが、今朝は二面の片隅に載った小さな表が気になってそこで指が止まった。全ロシア世論研究センターの定例の調査で、政府の支持率は61%と出ている。春から大きくは動いていなかった。
だがその下に都市と農村に分けた数字が添えられていた。都市では65%を超えているのに、農村では43%まで落ちている。
ヴィクトルは顔をかすかにしかめた。冷夏のせいで今年の収穫が去年を大きく下回るのはもう分かっている。その見通しが農村に広まり始めた結果がこの数字なのだろう。
机の端にはチェルノフが置いていったコーヒーが湯気を立てていた。ヴィクトルがそれに手を伸ばしかけた時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「お待ちください、今は副長官が」
チェルノフの声だった。それを押し返すように太い声が廊下に響く。
「待てるか! 陳情だ、陳情!」
扉が勢いよく開き、二人の男がほとんど同時に執務室へなだれ込んできた。
先に踏み込んできたのは日に焼けた大柄な男だった。ステパン・ザヴェリン、クバンの大きなソフホーズの所長から叩き上げた農業党の顔で、節くれ立った大きな手に丸めた書類を握りしめている。その半歩後ろから眼鏡をかけた痩せた男が肩で息をしながら追いすがってきた。農業大臣のニコライ・フリスチンで、こちらは分厚いファイルを胸に抱えていた。
廊下の途中で鉢合わせをして先を争ってここまで来たのだろう。二人とも相手に一言も譲る気はない顔をしていた。
「閣下、申し訳ありません」
チェルノフが二人の間に割って入ろうとしたが、ザヴェリンの肩幅の前ではどうにもならなかった。
その後ろからアレクサンドロフが悠々と部屋に入ってきた。近頃お気に入りのコーンパイプを火もつけないまま口にくわえている。彼はヴィクトルと目が合うと二人の方を小さく示した。訊いてやれということらしい。
ヴィクトルは内心で頭を抱えた。こういう時のアレクサンドロフは止めるどころか面白がっている。
「副長官」
ザヴェリンが机の前に仁王立ちになり、書類を叩きつけるように置いた。
「クバンもスタヴロポリも穀物の出来はひどいもんだ。このままじゃ冬に牛に食わせる飼料が足りなくなる。今のうちに輸入の予算を積み増してもらわにゃ、春には牛舎が空になる」
「その輸入こそが問題なんです」
フリスチンが横から身を乗り出した。
「副長官、毎年どれだけの外貨が飼料のためだけに国外へ出ているか、ご存じのはずです。コルホーズに金を流し込んでも何も変わらない。今こそ土地を農民に渡して自分の畑を持たせるべきなんです」
「学者先生が何を言うか。明日には村から学校と診療所がなくなってもいいってのか!」
「そうは言っていません。ただこのままでは国がもたないと」
二人の声が重なり、執務室の中で押し合いを始めた。チェルノフが困り果てた顔でヴィクトルを振り返り、アレクサンドロフは窓際の椅子に勝手に腰を下ろして火のないコーンパイプに煙草を詰めながら成り行きを眺めている。
ヴィクトルはコーヒーを一口だけ飲み、それからカップを静かに受け皿に戻した。
小さな音だったが、二人の男は同時に口をつぐんだ。
「お二人ともどうぞお座りください」
ヴィクトルは机の上の朝刊を畳み、脇へ押しやった。
「ちょうど牛の話をしなければならないと思っていたところです」
二人が椅子に腰を下ろすのを待つ間、ヴィクトルは机の引き出しから古いファイルを一冊取り出した。表紙の角はすり切れ、ゴスプランの整理番号が色褪せたインクで記されている。
1990年の秋にモスクワへ呼ばれてから、彼が真っ先に調べたのがこの国の肉の帳簿だった。スヴェルドロフスクの支局にいた頃からずっと不思議に思っていたのだ。店の棚にはいつも肉がないのに、国全体の計画の上では肉の生産は毎年のように増えていることになっている。その矛盾の出どころを彼はゴスプランの書庫で数週間かけて掘り起こした。
答えは単純で、そしてどうしようもなかった。この国は肉を作れば作るほど損をする仕組みで売っていたのだ。コルホーズから国が肉を買い上げる値段は年を追うごとに上がっていくのに、店で売る値段は30年近く据え置かれたままだった。その差額を国庫が補助金として埋め続け、補助金は膨らみ続けた。しかも肉牛を太らせる飼料は国内で賄いきれず、毎年数千万トンの穀物を、外貨を払って西側から買い込んでいた。肉を一切れ売るたびに国は外貨と補助金の両方を失っていたことになる。
1991年の春には、ヴィクトルははっきりと結論を出していた。これは構造として維持できない。どこかで必ず崩れる。それでもなぜ共産党は30年もこれを続けたのか。その答えも同じ書庫の奥にあった。
1962年6月。政府は肉の小売価格を3割、バターを2割5分引き上げると発表した。同じ時期にロストフ州の小さな工業都市ノヴォチェルカッスクの機関車工場では、賃金の実質的な引き下げが重なっていた。怒った労働者たちは工場を止め、市の中心へ向かって行進を始めた。
軍が出動し、群衆に向けて発砲した。20人を超える死者が出たと言われている。事件は長く伏せられ、公式の記録からも消された。
だが党の指導部はあの日のことを決して忘れなかった。肉の値段を上げれば労働者が街に出る。労働者に銃を向ければ、労働者の国家という看板そのものが崩れる。
それからの30年、誰一人として肉の値段に手をつけようとしなかった。値段を据え置き、足りない分は補助金で埋め、足りない飼料は外貨で買う。隣のポーランドでは1970年にも1980年にも、肉の値上げが暴動と政変の引き金になった。そのたびにクレムリンは同じ教訓を噛みしめ直したのだ。
肉は食料ではなく、政治だった。
「ザヴェリンさん」
ヴィクトルはファイルを閉じ、顔を上げた。
「ノヴォチェルカッスクをご存じですか」
ザヴェリンの大きな手が膝の上で止まった。
「……知ってるも何も」
彼は低い声で言った。
「あの年、わしはロストフの隣のソフホーズでトラクターに乗ってた。22の時だ。町で何があったか村の年寄りたちはみんな知ってた。誰も口には出さなかったがな」
フリスチンが驚いたように隣を見た。ザヴェリンは彼を見ずに続けた。
「肉の値段を上げたら、人が死ぬ。わしらはそれを知ってる世代なんだよ、副長官。だからコルホーズは牛を減らさなかった。減らせなかったんだ」
「ええ」
ヴィクトルは静かに頷いた。
「共産党がこの仕組みを30年続けた理由はそれです。肉の値段を上げる勇気がなかったのではなく、上げた時に何が起きるかを知っていたからです」
彼は机の上で指を組んだ。
「ですがあの時の党が払わずに済ませた勘定書は、消えたわけではありません。30年分の利子をつけて今この国に回ってきている。今年の収穫でその支払いの期限がついに来たというだけの話です」
執務室が静かになった。窓際のアレクサンドロフがコーンパイプを口から外した。
「ノヴォチェルカッスクを繰り返さずに、牛を減らす。それが今日お二人に相談したいことです」




