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【第2.5部】寒い夏6

宿を出たのは日が昇ってすぐのことだった。

念のため人通りの少ない時間を選んだのだ。


亭主はわざわざ玄関まで見送りについてきたが駅まで送るとは言わなかった。そこから先へは踏み込まないという線が老人の歩幅にはっきりと見えた。保安庁の男たちを見ているのだから厄介ごとを避けたいのは当然だった。


それでも、とシェフチュクは思った。素性の知れないロシアの旅券の男を一晩泊め、食卓を囲ませ、駅の男たちのことまで教えてくれたのだ。この国が置かれた今の有様を思えばそれは並大抵の好意ではなかった。


戸口で振り返りなぜここまでしてくれたのかと訊くと、亭主は少しだけ首をかしげて朝の空を見上げた。そしてふっと笑った。


「まあ、ご縁だな」


シェフチュクが深く頭を下げると老人は軽く手を上げて静かに扉を閉めた。


朝の街を一人で歩き出す。路面電車の停留所の脇の売店では、パンや牛乳や煙草の値札がどれも昨日の数字に線を引いて書き直されていた。電車はなかなか来ない。シェフチュクは停留所に立ったまま建物の角と路地の入口、停まっている車を順に確かめた。


昨日の男たちの姿はどこにもなかったが、いないことがかえって落ち着かなかった。見張りをやめたのか見えない場所に移っただけなのか、彼には判断がつかなかった。考えているうちに軋みを上げて路面電車がやってきた。


駅の売店で、列車で食べるパンと熱い茶を買う。売り子の娘は分厚い釣り銭の札束を輪ゴムで留め、数えもせずに彼の手へ押し込んだ。数える手間の方が札束の値打ちより重いのだろう。


ホームにはドニエプロペトロフスク行きの列車が停まっていた。塗装は剥げ窓の何枚かにはベニヤ板が打ち付けてあるが今日は動くらしい。窓際の席に腰を下ろすと発車のベルが鳴り、ハリコフの灰色の街並みがゆっくりと後ろへ流れ始めた。


列車はハリコフを出てから平原の中をのろのろと南へ下っていった。途中の小さな駅ではそのたびに長く停まった。機関車の具合でも見ているのかそれとも単に待たされているだけなのか、車内に説明は何もなかった。


ロゾヴァの分岐駅を出たところで向かいの空いた席に女が一人腰を下ろした。


シェフチュクは窓の外を眺める振りをしたままガラスに映る姿で彼女を見た。30代の半ばくらいだろうか。使い込んだ旅行鞄を提げ、色の褪せた木綿のワンピースに薄手のカーディガンを羽織っている。どこから見ても実家に帰る途中の質素な旅人にしか見えなかった。


だが座り方が違った。背筋は伸びているのに肩には力が入っておらず両足の裏がしっかりと床をとらえている。カーディガンの袖から覗く前腕には無駄のない筋が通っていた。自分と同じ種類の人間の訓練された体だった。


彼は少しだけ考えた。気づかない振りを続けることはできる。だがハリコフの駅からここまで自分はずっと見られていたのだ。今さら善良な旅人を演じても互いに時間の無駄でしかなかった。


「ロゾヴァからですか」


シェフチュクが窓から顔を戻してウクライナ語で声をかけると、女は少し驚いたように目を上げそれから穏やかに微笑んだ。


「ええ。叔母の家に寄っていたんです。ドニプロペトロウシクまで」

「私もです。子供たちに会いに」

「それは楽しみですね」


天気の話と止まってばかりの列車の話が二つ三つ続いた。女の受け答えは自然で声の調子にも隙がなかった。シェフチュクは膝の上で指を組み、何気ない口調のまま言った。


「ハリコフの駅では柱の陰に2人いましたね。交代ですか」


女の微笑みは崩れなかったが、ほんの一瞬だけ目の奥の温度が変わった。


「隠すおつもりはないんですね」

「隠してもお互いに得がないでしょう」


女は小さく息をつき旅行鞄を足元に置き直した。


「勤め先はお察しのとおりです。ご安心ください。あなたをどうこうするために来たわけではありません。ご忠告を差し上げに来たんです」


女は窓の外に目をやった。枯れかけたヒマワリの畑が灰色の空の下を流れていく。


「ドニプロペトロウシクでは今、工場の人たちが何度も集まっています。選挙の結果に納得していない人が多いんです。そういう集まりの近くにモスクヴァの警護庁の方がいた。それだけでキーウは誰かが糸を引いていると考えます。あなたにその気がなくても」

「近づくつもりなどありませんが?」


ゆっくりとシェフチュクが答えると女はそう願っていますと言い、そこで少しだけ声を落とした。


「それとハンナさんのお勤め先のことも、こちらは承知しています。大事な職場です。ご家族のためにも静かな休暇にしてください」


脅しとも気遣いともつかない言い方だった。元妻の名前が出た時、膝の上の指に力が入りかけたのをシェフチュクは意識して抑え込み、表情を変えずに頷いた。


次の駅で列車が停まると女は旅行鞄を持って立ち上がった。数歩歩み彼女は通路で一度だけ振り返った。


「良い休暇を、フリホーリー・シェフチュクさん」


故郷の読み方で彼の名前を呼び、女はホームへ降りていった。




ホームに降りた女のそばへ作業着姿の若い男がさりげなく歩み寄ってきた。駅の構内で荷を運ぶ人足にしか見えない格好だったが、女を見る目には隠しきれない緊張があった。


「車を回しましょうか」

「いいえ、このままでいい」


女は旅行鞄を持ち直し、動き出しかけた列車の窓を横目で見た。


「ドニプロペトロウシクの支局に電話して。駅に着いたところからあの男の監視は続けること。子供の家にも元妻の勤め先にも目を置いておいて」

「何か仕掛けに来たんでしょうか」

「見た限りではやる気じゃない。子供に会いに来ただけの、ただのノンポリね。でも人は見かけによらないから」


若い男は短く頷いて駅舎の方へ駆けていった。女はその背中を見送ることもなく、ホームの端に立ったままゆっくりと速度を上げていく列車を眺めていた。


窓の一つにあの男の顔があった。シェフチュクは隠そうともせずまっすぐに彼女を見ていた。怒りも警戒も浮かべていない、ただ静かに相手の輪郭を測るだけの目だった。女の背筋を冷たいものが一筋走っていった。


ぞくりとするほどの猟犬の目だった。獲物の匂いを覚えたらどれだけ時間がかかっても忘れない種類の目だ。アフガンの山でゲリラたちがハイエナと呼んで恐れたソ連の部隊の話を聞いたことがある。ああいう目をした男たちがいたのだろう。


あれがGRUか。


女は窓の中の男に向かって小さく微笑み、目を離さず見送った。列車はそのまま平原の向こうへ遠ざかってやがて灰色の空に溶けていった。


今のあの男に何かをする気はないのだろう。本当にただ子供に会いに来ただけなのかもしれない。だがそれは大した問題ではなかった。モスクヴァの大統領府であの副長官の背中を毎日守っている男だ。副長官が誰と会い、何を話し、どんな顔で書類に署名しているのかをあの男は誰よりも近くで見ている。そしてその男の子供たちはこの国で暮らしている。


今は何もしなくていい。種をまいておけばそれでいい。

女は旅行鞄を持ち直しホームを後にした。

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