【第2.5部】寒い夏5
夫婦は善良だった。あるいは善良な人間の振りができる程度には学があるのかもしれない。
シェフチュクはその両方を半分ずつ信じることにした。戸棚には本が並び、壁には孫らしい子供の写真と工場の表彰状が並んで掛けられていた。
「一杯やるかい」
亭主が台所の戸棚からウォッカの瓶を取り出した。シェフチュクは首を振った。
休暇の日でも見知らぬ家で酒は飲まない。それも彼の癖だった。
「代わりと言ってはなんですが、冷蔵庫のあの缶を一つもらえますか」
先ほど亭主の妻が冷蔵庫を開けた時に見えた飲み物が気になっていたのだ。
亭主が頷いて冷蔵庫の扉を開けると、棚の上に英語の文字が躍る臙脂色の缶が数本並んでいた。ドクターペッパーと書いてある。シェフチュクは少しだけ目を細めた。見たことのない缶だった。米国資本の典型といえるあの赤と白の缶は彼もさすがに見たことがあるし、ものめずらしさで買ってみたこともある。
近頃はモスクワでも少しずつ西側の資本に扉を開いているので、買うこと自体はできるのだ。だが街の売店の棚に並ぶのはまだほとんどが国内の工場の品物で、こういうマイナーな缶は外国人向けの店でたまに見かける程度だった。
「ああ、これはな」
亭主は缶を一本取り出し、手のひらで転がした。
「ポーランドから入ってくるんだ。担ぎ屋が持ってくる。キーウの方じゃアメリカの会社が工場を建てるって話もある。IMFの人たちが来てから、こういうものだけはやたらと増えた」
そして少し考えるように間を置いてから、1ドルだと言った。ぼっているのかどうかは分からなかった。この国の物の値段はもう誰にも分からないのかもしれない。カルボヴァネツで払えば桁が合わず、ドルで払えばいくらでも高くなる。シェフチュクは財布から1ドル札を抜き出して亭主に渡した。
プルタブを引くと乾いた音がして、甘い匂いが立ち上った。一口含んだ途端、炭酸が喉を突き抜けていく。遅れてさくらんぼとも薬草ともつかない甘い香りが鼻に抜けた。咳止めの水薬を炭酸で割ったような味だった。
思わず少しむせてしまい、それを見て亭主は軽く笑った。彼もごまかし笑いを浮かべてしまう。さすがにいい年をした男が缶ひとつでむせているのが少しばかり恥ずかしかった。咳が収まってからラベルを眺めると、英語の商品名の下に小さな文字がびっしりと並んでいた。
ポーランド語だろうか。副長官の護衛についてから東欧の言葉はひと通り叩き込まれたが、読めるのは書類と標識とせいぜい食品のラベルくらいだ。記憶を引っ張り出しながら数字の並ぶ欄を拾っていくと、熱量の欄にすさまじい数字が載っていた。
シェフチュクは思わず苦笑した。アフガンの山で一日に食べた乾パンの量を思い出す。あの頃の一日分がこの缶ひとつに詰まっているのかもしれなかった。
しかし、と彼は思った。モスクワは扉を少しずつ開けている。自分の工場で作れるものは守り、作れないものだけを外から入れる。一方キエフは扉を一気に開け放った。外の品物は溢れるほど入ってくるのに、自分の国の列車は動かない。
正直どちらが正しいのか、シェフチュクには分からなかった。ただこの甘すぎる缶の中身が、窓の外の半分しか煙を上げない工場とは何の関係もないことだけは分かった。
亭主が向かいの椅子に腰を下ろした。手には昼食後の茶を淹れたポットを持っていて、自分の湯呑みにだけ注いでゆっくりと口をつける。シェフチュクはふと、この家に酒瓶の匂いがしないことに気づいた。旧ソ連の男の家なら昼から台所にウォッカの匂いが染みついているのが普通だった。
さっき戸棚から出てきた瓶は、ロシアから来る客やたまに訪れる西側の観光客に出すためのものなのだろう。亭主自身は酒を避けているのかもしれなかった。
「あんた、ここの生まれだろう」
湯呑みを置いて亭主が言った。シェフチュクは少しだけ間を置いてから訊き返す。
「どうしてそう思われるのです」
「さっきうちの妻に礼を言った時の言葉だよ。モスクヴァの人間はああいう言い方はしない。それにあんたの喋りにはドニプロの訛りが残ってる」
亭主は穏やかに笑った。
「わしは若い頃ドニプロペトロウシクの工場に出張でよく行ったんだ。あっちの人間の喋り方は耳に残ってる」
シェフチュクは答えず、否定もしなかった。
「別に詮索するつもりはないさ。ただ一つだけ言っとくよ。駅からあんたの後ろをつけてきた2人がいたろう」
缶を持つシェフチュクの指が止まった。
「わしらの世代はああいう連中の歩き方を嫌というほど見てきた。名前が変わっても歩き方は変わらんのさ」
亭主は窓の外に目をやった。
「ドニプロペトロウシクに行くなら気をつけな。あそこは今クチェルの街だ。選挙の後、工場の連中が何度も集まってる。キーウはそれを嫌がってる」
気をつけな。ついこの間モスクワで聞いたのと同じ言葉だった。シェフチュクは缶を置いて小さく頭を下げ、礼を言った。亭主も何も言わずに頷いた。二人の会話の間、茶の湯気が窓から差し込む灰色の光の中でゆっくりと立ち上っていった。
翌朝、台所から焼いたパンの匂いがした。
食卓には黒パンと茹で卵、薄く切ったサーロが並んでいる。質素だが手を抜いた朝食ではなかった。亭主の妻は温めた牛乳を注ぎながらため息まじりに笑った。
「たくさんは出せなくてね。パンがまた上がったんだよ。先週と同じ札束を持っていったら一斤足りなかった。店の値札なんて毎朝書き直してるんだから」
年金はどうしているのかと訊くと、妻は肩をすくめた。夫婦2人分の年金ではパンとジャガイモを買えばそれで消えてしまうのだという。息子の仕送りがなければとっくに干上がっていたらしい。亭主は口を挟まず黙って黒パンをちぎっていた。
食卓の端には昨日の新聞が折りたたんで置いてあった。一面にはクラフチェンコ大統領の続投とIMFとの新しい合意が大きく載っていて、その下の小さな欄に為替の数字が刷られている。シェフチュクは何気なくその数字を目で追い、そこで手を止めた。
モスクワを発つ前に警護庁の保安部門で渡された資料にも、同じカルボヴァネツの相場が載っていた。まだ数日しか経っていない。それなのに新聞の数字はドルに対してそこから1割以上も落ちていた。月の話ではなく、たった数日の話だった。この調子で落ち続ければ年が変わる頃にはいったい何桁になっているのか。ばかげた下落の速さだった。
彼は新聞を黙って元の場所に戻した。老夫婦の年金が消えていく速さもこの数字と同じなのだろう。




