【第2.5部】寒い夏4
駅舎の壁際に公衆電話が並んでいた。
ハンナに、元妻に着くのが1日遅れると伝えなければならない。シェフチュクの意識が一瞬そちらへ向き、体が半歩だけ動きかけた。しかし彼は意識してそこで足を止めた。
柱の陰の2人はまだそこにいた。擦り切れた上着に安物の靴。身なりは良くない。だが立ち方で分かる。何も見ていないふりをして全てを見ている者の立ち方だった。
ウクライナ保安庁(SBU)。ソ連の国家保安委員会から枝分かれした組織だ。看板と旗を替えただけで中身はほとんど変わっていない。決して善良な組織ではなかった。
ここで電話をかければ番号は記録される。相手が誰かすぐに調べがつく。
ロシアの警護庁の人間が、ドニエプロペトロフスクのミサイル設計局の技術者に電話をかけた。
それが連中の帳簿にどう書かれるか、シェフチュクには手に取るように分かった。自分が疑われるだけなら構わない。だが元妻の職場はこの国の一番敏感な場所の一つだった。
彼は公衆電話から視線を外した。
ため息が漏れた。ハンナが子供たちを連れてモスクワを離れたのは1992年の春だった。
あれもクルスク駅のホームだった。タラスは11歳で、オクサナはまだ7歳だった。娘は父親も一緒に来るものだと思っていて、発車のベルが鳴っても彼の袖を離さなかった。
「あなたも来られるのよ」
ハンナは最後にもう一度だけそう言った。
「向こうにもあなたの仕事はある。軍も保安庁もあなたみたいな人を欲しがってる」
シェフチュクは首を横に振った。副長官の護衛についてからまだ半年だった。元帥に選ばれた任務であり、国が割れようと途中で投げ出すわけにはいかなかった。
ハンナはそれ以上何も言わなかった。娘の手を彼の袖から一本ずつ剥がして、列車に乗せた。
窓の向こうでオクサナが泣いていた。
彼もまた仕事がなければあの列車に乗るべきだったのだ。
ため息はさらに深くなった。こうなるはずではなかった。
国が割れる前、ドニエプロペトロフスクもモスクワも同じ国の2つの街にすぎなかった。休暇の度に家族を連れて故郷に帰り、ドニエプル川の岸で夏を過ごし、また列車でモスクワに戻る。それで良かったはずなのだ。
今は子供に会いに行くために保安部門の許可が要り、国境で旅券を調べられ、故郷の駅で電話一本かけることすらためらっている。善良な旅人の仮面を貼り付けて保安庁からそっと目を離しながら、彼は視線を落とした。
ひとまず1泊の宿を探さなければならなかった。
駅前の大きなホテルは避けるべきだ。ソ連の時代からああいうホテルの宿帳は、保安機関に筒抜けだった。今も変わらないだろう。
駅舎の出口のあたりに年配の女たちが何人か立っていた。手書きの小さな厚紙を胸の前に掲げている。
ロシア側の旅行者や物珍しさで見に来る西側の観光客を相手にした、民泊の客引きだった。
部屋があります、1泊300ルブリ(ルーブル)、または5ドル。食事つき。
シェフチュクは考えながらその中の一人に近づいた。頭にスカーフを巻いた、腰の曲がった老婆だった。
「一晩頼めるか」
老婆は彼を上から下まで眺め、それから小さく頷いた。
「ドルかい。それともルブリ」
「ドルで」
老婆の顔がほんの少しだけ明るくなった。
「路面電車で3つ先だよ。息子の部屋が空いてるんだ。息子はモスクヴァに出稼ぎに行ったきりでね」
シェフチュクはうなずくと老婆の後について歩き出した。そっと一瞬後ろを見る。
柱の陰の2人がゆっくりと煙草を消すのが、視界の端に見えた。
幸いなことに、と言うべきだろうか。彼の財布は潤沢だった。
副長官は自分の周りを守る人間の財布を削り倒すほど薄情な男ではなかった。
あの男は国家と寝た男だと陰で言われていた。給料などほとんど受け取らず、自分の金にまるで執着しない。その代わりに自分の給料の7割を護衛たちの手当てに回していた。本人がそれを口にしたことは一度もない。シェフチュクがそれを知ったのは、警護班の経理の担当者が酒の席で漏らした時だった。
といっても加棒自体は月給が倍額になるほどではない。だが副長官は護衛につく要員たちに、月給が数割増しになるほどの札束を自腹で配っていた。
シェフチュクが今持ち歩いているのはドル札で200ドルと、同じくらいの価値のルーブルだった。これは彼の給料一か月分に相当した。年一度の子供たちとの再会、そして元妻への感謝のために、彼が少しずつ蓄えたお金だ。
まだ動いているハリコフの空港で50ドルを払えば空路で向かうこともできる。一瞬だけ彼はそれを考えた。だが一日のために子供たちの将来の費用を吐き出すことは、彼にはできなかった。
彼は老婆の夫に宿代をドルで前払いし、それから財布の中をふと眺めた。
ドルの札。そして新しいルーブルの札。
ウクライナとバルトを経済圏に入れないと決めた時、副長官は素早かった。アレクサンドロフとレニングラード派と共同し、ルーブルの発行の権限を押さえにかかったのだ。旧ソ連の各国が自分の紙幣を刷るのは自由。だがモスクワが信用を貸すのは共同体に残った国だけ。規律のない紙幣の刷り散らかしを、あの男は何より嫌った。
その手腕がこの国とロシアをつないでいた綱をきれいに切り払った。
そして自分はその分け前を財布に入れて、切り払われた側の街を歩いている。
シェフチュクは財布を閉じ、案内された部屋に入った。
荒れてはいなかった。
小さな部屋だったが床は磨かれ、窓際には鉢植えのゼラニウムが置いてある。寝台のシーツは糊が効いていた。棚の上には新しい小型のテレビがあり、94年製を示すロシアの工場の銘板がついている。台所の冷蔵庫もまだ新しかった。
悪くない。いや、むしろ奇妙なのだ。
鉄道も止まり路面電車も途中で止まる街で、この家だけがどこか満ち足りている。
「驚いたかい」
老婆の夫が戸口に立っていた。背の高い痩せた老人だった。擦り切れたカーディガンの胸に工場の勤続記章が小さく光っている。
「息子がモスクヴァから送ってくるんだよ。毎月、ルブリでね」
老人はテレビの方を顎で示した。
「あれも息子が担ぎ屋に頼んで送らせた。この国の工場じゃあもうテレビなんか作れやしない」
「息子さんは向こうで何を」
「建設現場だ。モスクヴァは今どこも工事だらけだと言ってた。給料も遅れないと。こっちの工場なんか1か月は遅れるっていうのに」
老人は窓の外の、煙の半分しか上がっていない工場群を見やった。
「わしはあそこで40年、戦車の変速機を作ってた。しかしまあ今はロシアから来た戦車をばらしてるらしい。情けないことだと思うが文句も言えん」
それから乾いた声で笑った。
「おかしな話だろう。モスクヴァのおかげでわしらは食えてる。でもモスクヴァのせいでこうなったんだ」
シェフチュクは何も答えなかった。
答えられるはずがなかった。自分の財布の中にはその「モスクワのせい」の分け前が入っているのだから。老人はそれ以上何も言わずに戸口から離れた。台所の方で彼の妻が鍋をかき回す音がした。




