冷たい雨
朝から冷えた雨が降り続いていた。部屋に朔夜を呼び出した高時は雨音を聞きながら黙ったままで対峙していた。
前夜遅くに朔夜が怪我をして帰って来たことを聞いていた高時は、朔夜に説明を求めたが、下手をして馬から落ちた、それだけを告げたままで朔夜はだんまりを決めている。
高時は苛ついていた。
明らかに顔には殴られた痣がある。手首には縄の痕が見える。
(俺をたばかるのか。朔夜、お前の真実はどこにある)
人を寄せ付けぬが決して言葉に嘘のない朔夜だった。過去の事や自分の事はほとんど話さない、だが嘘の言葉を高時に告げたことはないと信じていた。
(……信じていたのに。違ったのか?)
今までも俺に嘘をついてきていたのか? 誰が俺の傍にいるんだ?
「……お前は」
ずっと黙っていた朔夜が、真っ直ぐに高時を見据えた。
獣の瞳が揺れている。その少し色味の薄い瞳は今でも美しいと思う。
誰かが言っていたのを思い出す。若い兵士の一人だったか。
――あの方は、衆目を集めてそれを離さぬ存在感がある。戦場を駆けるは鬼神の如く、休息の時は孤高の峰の如く、振り返る瞳は鋭い刃の如く。迂闊に近寄れば鋭く斬られてしまいそうなのに、その刃の煌めきから目が逸らせない。そんな存在だから常につき従いたい。
そうだろう。誰にも屈せず懐かないこの存在に魅了されない者などいないだろう。
だが自分は従いたいのではない。従わせたいのだ。
そばにいるだけではもう満足出来ない。従わない獣を欲していながら、自分にだけには従って欲しいのだ。
「お前は俺を必要としているのか?」
朔夜が問いかける。
「……は?」
虚を突かれた。
「俺は、お前の側にあっていいのか?」
朔夜が何を言い出したのか分からなかった。
なぜそんなことを尋ねる。何が言いたい。俺が朔夜を必要としているかだと? 当然だ。朔夜を失うことなど考えられない。
以前、朔夜の隊が敵襲を受けて壊滅だと告げられた時、全ての景色が黒に染まった。我を失ってしまうほど動揺した。今も、失うことなど考えられない。
「なぜ……そんなことを問う」
目を眇めて朔夜の表情から真意を読み取ろうとしたが、朔夜は瞳を伏せた。
「……いや、いい。要らないことを聞いた。忘れてくれ」
「どうした朔夜。様子が変だぞ」
「気にするな。俺の独り言だ」
「だが……」
「それより明後日にはもう友が戻るそうだな」
「ああ、幸い母御は一命を取り留めたそうだ。ゆっくりしてきても良いものを、そんなに急いで戻るとは友三郎もせっかちな奴だ」
「そうだな。俺はまた迎えに日置の家まで行く」
「過保護だな。もう友三郎も迷うまいに」
「いや……。山中は危険だ……」
言いながら、朔夜の息が乱れた。肩で息をして前のめりに倒れそうになるのを手をついて支える。驚いて腰を上げかける高時を手で制する。
「いかがした、朔夜!」
「何でもない、気にするな」
「もしや傷が痛むのか?」
「ち、違う……。本当に何でもない」
うろたえる朔夜の姿に不審を抱いたが、それ以上問いかけるのをためらった。何か尋常ならざる様子に見えたからだ。
「それより……」
息を整えた朔夜が一つ大きく深呼吸してから問いかけた。
「美濃の息子はまだしばらく滞在させるのか」
「弘龍殿のことか? 弘龍殿の気の済むまでご滞在いただこうと思っているが、それが何だ?」
「少し……気をつけろ」
「なに?」
「あの者は城の奥深くまで自由に行き来している。念のために気をつけろ」
その言葉に高時の眉が跳ね上がる。
「何だと! 弘龍殿が間者だとでも言いたいのか? 実の妹御が奥にいるのだ。自由に行くように勧めたのは俺だ。あの方を疑うことは許さない!」
言い放つ高時を見上げた朔夜は、何も言わずに礼をすると部屋から出て行ってしまった。
朔夜は何が言いたかったのか。何故弘龍殿を厭うようなことを言う。
冷たい雨が、一人になり冷えた部屋をさらに冷やすようだった。すっきりとしない重く湿った空気が高時の心を沈ませた。




