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雪の峰を仰ぐ


 二日後、友三郎が戻ると高時は少し気持ちが落ち着いた。

 いつものように無邪気な笑顔で高時を迎えてくれる。どこにいてもすぐに駆けて、阿吽の呼吸で頼みごとを処理してくれる。

 目立った位置にはいない友三郎だが、いなくては満たされない。これほど無私に仕える者は他にはいないだろう。


「城に戻る時にも朔夜が迎えにきてくれたのですが志岐まで一緒で驚きました。聞けば私を送り届けた後に、落馬してしまい動けなかったところを志岐が探しだしたとのこと、あの朔夜でもそのような事があるのですね。それで志岐は心配して着いてきたそうですよ。私の心配してる場合ではないですよね」

 笑う友三郎に、高時の心は癒される。

 危篤状態を抜けたとはいえ、まだ寝込んでいる母親を置いてまで仕えてくれる。友三郎は変わらない。幼い時からずっと高時だけを慕って付いてきてくれる。


 薄暮の中に浮かぶ富士の峰を見上げた。

 もう山頂は雪を頂いている。この時期の富士が一番美しいと思う。

 この城から見える富士を亡くなった親父様はどう思って見ていたのか。父に向かって毒蛇だと悪態を吐いたが、あのあくの強い父親を嫌いではなかった。

 今、父の残してくれたものを思えば、父が自分のことをどれほど思ってくれていたのかが分かる。


 最初に着任した満願時城の家臣。勇猛果敢な黒田左馬ノ介。知略に長けた野間春義。その息子義信。慎重派の堀道里。父の腹心だった本田頼興。そして日置友三郎。それから――


 一度大きく吸い込んでから、深く息を吐き出した。

 姶良、朔夜。


 種をやろう、と父が朔夜をくれた。

 あの頃の自分はどうだった。

 僅かの間だろうが、一生だろうが、朔夜が共に来てくれるならそれだけで満足だと思っていた。朔夜は誰にも仕えないと明言していた。あの父にさえ、だ。脅されても決して屈しなかった。


 父が言っていた。

 ――あの子供は手強い。死を恐れないからわしにも媚びないし屈しない。そのくせ貪欲に生きる術を本能で知っている。決して手懐けることは出来ない。


 あの父をしてそう言わせた朔夜だ。

 朔夜の問いかけた言葉が蘇る。お前は俺を必要としているのか、と聞いた。

 まさか朔夜は離れて行こうとしているのか? 

 俺が必要ないとでも言おうものならば出て行ってしまうのか?

 確かに近頃は互いに受け入れられない事があった。だがそれだけで? 出て行くのか?

「ダメだ。絶対に認めない……」

 この手元から、朔夜が消えるなど。

 絶対に認めてはやらない。


**


 どこから聞き及んできたのか。朔夜の手元に一つ文が届けられていた。

 すぐにその文は焼き払ったが、紙の焼ける匂いがいつまでも纏わりついているようで、朔夜は井戸端で冷たい水を何度もかぶった。それでもまだ消えていない気がした。


「朔夜! こんな冷えた日に何してんだよ!」

 志岐が駆け付けてずぶ濡れの朔夜をすぐに部屋へ押し込んだ。

「馬鹿かお前! なに水浴びなんかしてんだよ! なんかの鍛錬か?」

 手ぬぐいを手渡しながら乾いた着物をせっせと用意する。手ぬぐいを貰ったきり拭く事もせずに佇む朔夜からぽたりぽたりと滴が床板に落ちて黒い染みを作る。

「朔夜、ほら拭けって」

 乱暴に手ぬぐいを取り上げると、力任せにガシガシと朔夜を拭いてやる。

「俺、世話女房みたいになっちまってるな。ほんと、何をしてんだよ。お前がこんな風になるなんて、なんかあったんだろ? ん?」

 明るい目で笑いながら覗きこんで来る志岐をぼんやりと見上げた。どんな時でも笑っている。志岐は強い。芯の強い男だ。


 朔夜の目が、意思を持って光った。志岐の持つ手ぬぐいを奪うように手に取ると、自分で髪を拭きながら、濡れた着物を脱いで乾いた物に着替えた。

 着替えると気持ちが落ち着いた。

「心配するな。部屋で紙を燃やしたら匂いが付いてしまったから、それを取ろうと水を浴びただけだ。思うほど寒くはない。俺は寒さには強いからな」

 明らかにそれだけの様子ではなかったが、志岐は深くは尋ねない。そうか、驚かすなよと笑って肩を叩いた。


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