― 幕間 - ルイ
「ルイ! ちょっと待ってて!」
そう言って、カズミは先の路地へと駆けて行った。
具合が悪そうに壁に寄り掛かっていたルイは、彼女の姿が見えなくなると同時に背筋を伸ばす。さっきまでの高熱で覚束なかった様子など、まるで無かったかのように。
これから目と鼻の先で起こるであろう出来事は嫌になるくらいはっきりと思い描ける。
妙な術を使うあの女といえど、相手が相手だ、逃れられまい。
舌の上にほろ苦くて強烈に甘い、あの味が思い出された。
吐き気がするほど、甘ったるい。腐り落ちた果実。
ルイは目を閉じた。
「…畜生」
彼は出来損ないの道具だった。
そうして、彼は捨てられる前に、自ら見限った。
二度と戻る事は無いだろう。再びこの街に足を向けるにしろ、ほとぼりが冷めるまで近づく事は許されない筈だった。
―――それがどうしてこんな事になっているのか。
あの女が口にしていた世迷言そのままに彼は処刑されず、再びゼイアス国の西イーラウ地区にある警吏隊本部へと戻される事になった。
牢から解放され、身支度を整えるよう命じられると、馬車に乗せられた。
いつ気が変わって首を刎ねられるかもしれない。そうぼんやり思っていたが、王都を出立して数日後の夕刻、馬車は見覚えのある街の門をくぐった。
連行してきた騎士がシゼルの執務室まで付き添い、ルイは自分が殺した筈の男と再び対面する事になった。
「君には一年はこの地に留まってもらう」
窓辺で書類を手にしていたシゼルが告げた。
夕陽に赤く透けてみえる横顔は表情が無く、よく出来た彫刻のようだ。
殺されかけたというのに、何の屈託も伺えぬ、事務的な手続きを読み上げるだけの声だった。
「待遇は変えない。隊務も今まで通りだ。明日から通常業務についてくれ」
時間が経てば経つほど疑問があふれ、虫が体を這い回るような苛立ちが込み上げた。
「…何故、俺を戻した」
組織を抜けた当初、しばらく身を隠すのに丁度良い隠れ蓑になると思い、警吏隊の入隊審査を受けた。
まさか、こんな所で追われる者が追う側に逆転しているとは誰も思うまいと。
長居はするつもりはなかった。諜報活動に長けていると知られたのも予想外の出来事が重なったゆえだ。
彼と繋がっていた組織についても、依頼人の名前も、知り得る限りの情報は吐いた。どうせ彼の手札などたかが知れている。
所詮は羽虫と変わらぬ末端だ。自分でもそれはわかっている。
自分の命を狙った暗殺者を生かしておく道理が何処にある?
「このイーラウの警吏隊長は死にたがりの愚か者か? それともお貴族様の酔狂なお慈悲ってやつか。暇な事だ」
煽れば何か反応を得られるかと思ったが、やはり、安い挑発に乗るほど相手も莫迦ではない。
眉一つ動かさずに彼を見返したシゼルが次に告げたのは、端的な事実のみだった。
「お前が解放されたのは、カズミの嘆願による」
「…な」
「国王陛下に直訴したのは彼女だ」
知らず顔が歪むのを自覚した。
ざわざわと胸中を騒がせる奇異な感覚が酷く気持ち悪かった。
あんな子供のような女の嘆願を受諾するとは。
だが、あの女―――自分を殺そうとした相手の助命を請うなど、どうかしている。
―――裏切りには死より残酷な結末を。
それが普遍だろうに。
「進んで自白したそうだな」
顔を上げると、こちらを真っ直ぐに捉えていた視線に出会う。
「思惑がどうであれ、助力に変わりはない。無用な殺生は行うべきではないと私は考える」
「それで、また禍を呼び寄せてもか」
「起こってもみない事を懸念しても仕方がないだろう」
いとも容易く言い切られ、ルイは自分が莫迦になった気分になる。
「その甘さがいずれあんたを殺すだろうよ」
毒を吐き捨てれば、「気を付けよう」と生真面目なばかりの返答が寄越され、俺は忠告したんじゃねぇとルイは顔をしかめた。
―――違う。愚かなのはこの男である筈だ。
元から味方でないものを、わざわざ懐に招き入れるなど正気とは思えない。
これで何もかも終幕だと諦めていた自分が道化に思え、そんな己に舌打ちする。
あの能天気な女が無為に動いたとしても、警吏隊の長であるこの男がそんな短慮な判断を下す訳がない。
額面通りに彼の言い分を受け入れる事もできず、ルイの思考は二転三転した。
「テランでの襲撃に加担した連中は雇われ者だと言ったな」
―――テラン。あの老公爵が指示した例の舞台。
「事実、後続隊が捕えた者たちの大半は金銭目当ての傭兵だったようだ。一部を除いて」
「…」
「テランの宿に乗り込んできた一人は明らかに別格だった。そして、手引きした味方である筈の騎士たちまで殺害した。
襲撃を命じた公自身、杜撰な計画であった事を認めておられる。だが、それを補完した第三者がいた」
―――やはり、この男は愚か者などではない。
「…それで、何が言いたい」
それには答えず、シゼルは机の上に束ねられていた書類の一枚を抜き取って目を通し始めた。
「付け加えて、通常の任務とは別に君に命じておく。彼女を護れ」
「!」
「方法は君に任せるが、本人にはまだ気づかせるな。杞憂で終わればそれでいい」
何を何処まで知っているのか。
かつて若くして王立騎士団の一翼を担っていたという、王家に連なる青年貴族。
王都から離れ、その身は以前と比べものにならぬ待遇にあろうとも、この男自身からは何も損なわれる様子がない。ルイが多く目の当たりにしてきた顕示欲に固執する貴族たちとは違う。
―――警吏隊の監視下から逃げ出せば、自分には二重に追手がかけられるだろう。
二度裏切った組織、そして、この目の前の男も黙って見逃すほど甘くはない。
恨めしいと思った。
―――自分の生に微かでも執着を思い出させた、あの能天気な女を。