閑話:湿魔王の極楽浄土
――俺の名はジメル。大魔王が誇る最高幹部が一角、『湿魔王』と恐れられる存在である。
我が支配領域は、大湿原。物心ついた時から、俺の人生のすべては「湿気」と共にあった。
かつて人類の繁栄を誇っていた幾つもの王国を、俺はただの手招き一つで一夜にして底なしの濁流と泥沼へと沈め尽くしてきた。
どれほど名高い凄腕の英雄であっても、我が放つ不浄なるカビと病魔の濃霧に包まれれば、その瞬間に全身を激しい痒みと皮膚の爛れに苛まれる。いくら剣を振るおうと、魔力を練ろうと、まとわりつく悪臭と湿気によって呼吸器官を侵され、最後は狂乱のうちに絶望的な衰弱死を遂げるのだ。
地を這う重苦しい泥。皮膚の隙間に入り込んで蠢く不快な雑菌。そして四六時中、視界と呼吸を塞ぎ続けるねっとりとした濃霧。
それこそが我が支配の象徴であり、我々湿魔族にとって、じめじめとした不浄こそが至高の誇りであり、生き甲斐そのものだったのだ。
「グルルル……! 誰だ我が超湿気領域を乾かしたのは!? ガルシスの奴を破ったと聞いて警戒していたが……この『ドライ・ルビー』と、我が直属の大軍団の魔力を束ね、世界全土を永遠に沈むカビの死界に変えてくれる――!」
今日も今日とて、全身を苛む激しい痒みと不快感を魔王としての「誇らしい代償」として受け入れながら、世界を沈滅させる禍々しい野望を滾らせていた。
手にするのは、最高幹部の証であり、大湿原の魔力を無制限に増幅させる絶対的な至宝『ドライ・ルビー』。これを高く掲げ、地平線を黒く埋め尽くす我が大軍勢の魔力を一つに束ねさえすれば、全軍の湿気魔力は極大に達し、全大陸のあらゆる生命を絶対的な不快と死のどん底へ突き落とせるはずだった。
――だが。その絶対の確信は、唐突に訪れた「理不尽」によって木っ端微塵に砕かれることとなる。
目の前に静かに佇む、人間たちの小さな小部屋――『外付けテラス』。
ジメジメとした濃霧を切り裂いてその内部から漂ってきたのは、我が数千年の生涯で一度たりとも経験したことのない、狂気的なまでの「風」だった。
それは単なる爽やかな風などという生易しいものではない。
肌の表面にまとわりつく不快な水分をミリ単位の精度で制御し、皮膚の細胞に潜むあらゆる雑菌、カビ因子、不快な悪臭の分子を完璧に無害化し焼き払うような、あまりにも完璧に調律された――『極限の除湿・清掃空間』。
【自動清掃(極限除湿&不快因子・カビ完全除去):実行】
『シュウゥゥゥゥ……ッ!!』
すさまじい高周波の駆動音が、大湿原の空気を一瞬で震わせた。
次の瞬間、我が誇る数千、数万の湿魔大軍勢が、スキルの絶対的な判定によって「部屋を汚すただの不快なゴミクズ」として処理され、悲鳴をあげる暇すら与えられず綺麗な空気の粒子となって完全消滅した。
だが――過去に数多の国を沈めてきたはずの俺は、我が軍勢が一瞬で全滅したことなど、もはやどうでもよくなっていた。
なぜなら――。
『フワァァァ……』
「……な、なんだ……これは……!?」
我が全身を長年包み込み、誇りでもあり、同時に永遠の苦痛でもあった無数の痒みとカビのオーラが、文字通り身包み剥がすように綺麗サッパリ『洗浄・除菌』されてしまったからだ。
「あ……が……!?」
全身の皮膚が、嘘のように軽い。
呼吸を吸い込むたびに、濁った泥の匂いではなく、どこまでも透き通った空気が肺の隅々まで行き渡る。
腕を触ってみても、あの忌々しいネバネバした湿気は一切なく、サラサラとしていて、まるで陽の光をたっぷり浴びた高級な布地のような、あたたかいお日様の匂いがする……。
(なんだ……なんなんだこれは……!? 数多の王国を泥に沈め、死の恐怖で人間どもを平伏させてきたこの俺が……! こんな、一切のストレスが存在しない、完璧に維持された風の一撃で……屈するだと……!?)
思考が完全に停止した俺の眼前に広がっていたのは、まさに神の領域と呼ぶにふさわしい快適な光景だった。
足元には、ガルムという男が隙間なく敷き詰めた、足の裏を優しく包み込むふかふかの羊毛絨毯。
その中央で、背中を身を委ねるように支える謎のクッション――ルル。
耳をすませば、外の泥沼の不快な風切り音や騒音は完全に遮断され、音響担当のルードが整える、精神を優しく安らげる環境音の調律だけが響いている。
そして、佇むアリスという少女の保温茶器から、ふわりと立ち上る最高級紅茶の芳醇で甘い湯気の香り。
「……アリスさん、その『ドライ・ルビー』を回収しておいてください。湿気の元を置いておかれるのも困りますし、サンルームの魔導炉にちょうどいいので」
クッションに全身の体重を預け、手にした最高級紅茶のカップを傾けながら、冷ややかでありながら絶対的な平穏を湛えた声で主人が命じる。
指一本動かすことなく、ただ己の「快適さ」のためだけに世界を改変してみせる、そのあまりにも理不尽で圧倒的な強者としての佇まい。
それに触れた瞬間、俺の胸の奥底に存在していた「大魔王軍最高幹部」としてのプライドは、盛大に音を立てて木っ端微塵に崩れ去った。
――抵抗? 愚かな。そんな血生臭い野望など、このサラサラとした風の前にはただの不快なゴミ同然だ。
あの部屋の外に出る? ふざけた冗談を言うな。一度でもこの極上の乾燥と清潔さを知ってしまった以上、もう二度とあのカビと泥に塗れた暗くじめじめした世界になど戻れるわけがないだろうが!
「あ、はい……どうぞ……!」
俺は恐怖と、それ以上に圧倒的な快適さへの歓喜に全身を震わせながら、自ら進んで至宝『ドライ・ルビー』をアリスという少女に手渡していた。
「うう……お日様のようなあたたかい匂いがする……! 俺はもう、じめじめした泥の中に隠れて生きるのは嫌だ……! このテラスの『空気循環・清掃係』として雇ってくれぇぇぇ!!」
気付けば俺は、数多の生命の血と泥に塗れてきた過去の己をかなぐり捨て、ふかふかの絨毯の上に額を強く押し付け、大粒の涙を流しながら見苦しくひれ伏していた。
――こうして、世界を恐怖に沈めた血塗られた湿魔王ジメルの野望は、ものの数秒で、呆気なく打ち砕かれたのだった。
だが、俺の心に悔いや執着は微塵も存在しなかった。
なぜなら今、俺の全身と人生には、生まれて初めて出逢った、最高に心地よい「乾いた風」が吹いているのだから――。




